二元性でみる目も持ちつつ、
その先の「ありのまま見る」目を持つための修行がはじまった。
自分のことも含めてすべてを客観的に見る「観察者の眼」を持てるように
人間社会は物質と人の欲望でできているので
二元性でみる目も大事にするBBA私です。
この目を捨てちゃうと
「現実離れした精神世界BBA」になっちまうんで
二元性で相対的に見る目も必要なのさ。
でも、この世界に生きる人々の
個人個人の認識や観念、信念の違いが生み出す
「イライラした凶暴な社会」を生き抜くために
冷静な観察眼を手に入れたいのです。
零ベースでありのままを見る目を。
ということで
武士道の教えを心の芯柱にBBAの修行は
次なるステージへ
理屈っぽく色々考えてしまうBBAの脳に
優しく「ただ在る」「空」「無我」の世界を教えてくれる
こちらの本からの学びと共に修行をすすめていきます。
本日は「ありのまま見る」ために
まずは今の自分の現在地と向かうべきゴールの確認
私たちが見ている二元性世界
私たちが見ている「世界」と認識しているモノは
二元性世界なのだ。
- 明と暗
- 光と闇
- 善と悪
- 自と他
- 男と女
一方の存在を確固たるものにする逆の存在を必要としている。
私の理解で言うと更に
- 過去と未来
- 生と死
- 重と軽
- 速と遅
- 富と貧
- 美と醜
- 若と老
など、両極の間に線を引き
自分がどのくらいの位置にいるのか?
自分の現在地や存在や価値を認識するためには
物差しや基準が必要なようだ。
そのために人は色々な物差しで線を引き
区別、分別し、境界線を好む。
そうでないと「自分が確固たる存在」に思えないし
自分と他者の境界線があいまいなのは非常に怖いことなのだ。
自分が飲みこまれるかもしれないし、不安定。
この目線も大事だとBBAは思うんですよ。
でも忘れちゃいけないのが
これは表裏一体であったり
ベクトルの両端だとしても
同じ1つの線でつながっていることを。
二元性とは「私」の観念
二元性というものは、
この世界そのものではなく
この世界に対して考える
<私>の観念なのだ
“それ”は在るより
私たちが生きて、見ている世界というのは
「変化という幻想世界」であり
そこには明確な区別も分別も境界線も存在しないのに
<私>が世界を見つめる時
私の観念が見えるモノを区別し境界線をつくりだしているそうだ。
私が世界を見つめる時
私の想った通りに見える
量子論の世界や~
では、私に見えている世界の実態はどうなってるのか?
そこを見るためには
私が持つ観念を超越する別の目を持つ必要があるというわけ。
果てしなく…難しい修行になりそう…に思えたんですが
割とすんなり修行は進んでいったのです。
世界を観念で見ている自分を客観的に見れればOK
この修行のゴールが「ここ」
世界を「私の観念」で見ている<私>を
客観的に見つめる目が持てたらOK!
そこには主観や感情はなく
ただただ静かに「今、世界を見ている私」を
見つめられるようになったら
<私>を含め世界をありのままに見ることができる様です。
理屈では「そういうことか」と理解したけど
まだまだ実践はできておりません。
でも感情的に目の前のことを認識する前に
「ちょっと待てよ」って思うようになりました。
ゴールがわかれば
あとは自分のペースで進むのみ!
では、また~☆