武士道の精神を胸に、「柔軟で常に平静な心」を持つために
「禅」の世界に足を踏み入れてみたBBA私です。
禅の世界といっても
東洋側から覗くには「感覚」が研ぎ澄まされていないと
奥に入っていけないので
西洋側の「理屈っぽい」説法から覗いております。
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感覚よりも頭で理解してからじゃないと
先にすすめない「理屈っぽい」人間、まさにBBA私に
ピッタリな1冊でした。
同じような方にはおすすめの1冊です。
精神世界で願い通りの人生実現イエェ~イ!!
って本ではないのでご安心を。
どちらかといえばスピ系と呼ばれる人をバッサリ切り捨てているよ。
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「自分はスプリチュアルな人間だ」と思っている人のことを
“無知な幻想の住人”とバッサリ一刀両断している本です。
本日は私たちが見ている
「世界の真実の姿」「ありのままの現実」とは
結局なんなのか?
私たちが観念や信念を通して認識している世界。
その個々人の観念や信念による認識を外した「ありのままの世界」は
どうなっているのか?
ここがわかれば常にごちゃごちゃした状況や思考に襲われても
センターラインに戻れる気がします。
私が学んだところによると
世界そのものは白いスクリーン
私たちが見ている世界は
スクリーンに投影された映画のようなもので
見ている本人の信念や観念がつくり出した認識世界。
簡単に言えば「自分の見た世界に自分の解釈を加えた物語」
ほとんどの人はスクリーンに流れる映画の登場人物となって
映画の中にいる。
真理すなわち神とは
映画を映しだすスクリーンであり
映画の映像がいくら変化しようとも
なんら影響されることなく
常に完全のままである
“それ”は在るより
映画の中にいる登場人物となっている人たちは
映し出される物語の中に生きてるので
背景であるスクリーンの存在に気が付くことができない。
映画の中の人物が、スクリーンの存在を知る由もないのだ。
真理とか神と書かれていますが
私は「世界そのもの」「ありのままの世界」「世界の真の姿」
という捉え方で理解しております。
世界をありのままに見る第3の目
先ほどの映画を映しだすスクリーンの絵を見て欲しい
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ほとんどの人は自分の認識した世界の中で
登場人物となりスクリーンに映し出される映画の中にいる。
映画の中で物語の人物として思考している。
少し視野の広い人は
映画の中の自分を観客席側から見ることができる。
でも、映画の中の物語に引き込まれやすい席。
映画館で映画を見ている最中、
見ている人はスクリーンの存在を忘れており
映画の中の世界に入り込むから。
何モノにも振り回されない心を持つためには
どうやら、
- この映画の中の自分
- 映画を見ている自分
- 映画を見ている自分ごと見つめる自分
この3つの目が必要なようです。
「スクリーンは真っ白のままそこに在る」と意識しながら。
スクリーンがなければ映画も存在できない
私たちはふだんまっ白なスクリーンの存在に気が付かない。
でも、そのスクリーンがなければ自分が見ている世界も存在しない。
不思議な感じ、確かに「神」という存在はこんななのかも。
いろいろな物語を背負った神よりも神っぽいよね。
大事なことは
「スクリーンはいつもまっ白でただそこに在る」ってこと
スクリーンは常に完璧で何の問題もないままそこに在るのだ。
人生が白いキャンバスなのと同じやないか~
世界も人生も元々まっ白で
そこに何を描くのかは自分の観念や認識なのかぁ。
世界も人生も
「そもそもまっ白でただそこに在る」なら
私の心・精神も「まっ白でただ在る」が本来の姿か基礎に違いない。
こうして、私は心の中に
「まっ白な何にも影響されない部分」が在るとこを確信できたわけです。
“在る”とわかれば、そこを探すまでなのさ。
では、また~☆