「話が通じない人」「わかろうとしない人」「わからない人」
その人達に何が起きているのか?
また、その人と自分の間に何が起きているのか?
わかりやすく教えてもらい、スッキリしたBBAです。
以前から
- 話し合いができない人
- 話が通じない人
- わかろうとしない人
- わからない人
という存在に振り回されたり
精神をガンガン削られてきたので
「こりゃ、いったいどうなってるんだ?」
と興味を持って調べていたBBA私です。
何度かこのテーマでこのブログにも書いていますが
最近の「禅」の世界へ進む精神修行の中で
面白い教えを得た!
BBAが今現在、修行に読んでいる本はこちら
⇓
感覚ではなく「理屈」
西洋思想側から禅の世界を覗ける書
すごく痛快に面白く教えてくれたので
ここに絵にしてみた。
⇓
※<私>がAという人物を相手に話をしている場合
話が通じない場合
Aの認識=Aの世界そのもの
その範囲外の話をAに投げている可能性が高い。
わからない者たちは
自身の観念の範囲内によってしか判断できず
また理解しようとする前に
目の前の事象に忙しくなる
“それ”は在るより
観念の範囲外のことなんて
そもそも「その人の世界に存在しない」ことなので
まー理解できないのはわかる。
私が注目したのは
「理解しようとする前に、目の前の事象に忙しくなる」
という部分!
そして、更にこう続く。
よくわからない他者よりも
<私>が優先だからだ
“それ”は在るより
ここで、私は重要なことを知る。
これも図にしてみた(?)
⇓
<私>がAに対してAの観念・認識の範囲外のことを話している場合
<私>=Bであり
Aから見るとわけのわからないことをいう
面倒な他者であり
「厄介な他人」となっている。
また、私が実はAの立場という可能性も高い。
たぶん、私はAでありBなのだ。
この可能性が一番高い。
「話が通じない人」に遭遇すると
ついつい自分を正常ポジションにおいて
相手を見てしまうが
実際はどちらがAでどちらがBかは不明で
どちらの可能性も非常に高い(--;)
何か共通の理解の糸口を探していくか、
いったん距離をとって離れるか、
相手を批判的に見たて、ダメだこりゃと諦める前に
じゃあ、どうするかを考えねば。
相手と自分を比べたり
上下でみたり
勝ち負け意識で見る時は
<私>のエゴが強くなっているそうだ。
それがエゴの養分なんだって。
私はAでありBなのだ。
って考えを持つようにしよう。
φ(..)メモメモ
話が通じない人に遭遇した時のイライラは
これでだいぶ解消されるかもしれない(まだまだ修行中)
では、また~☆