聖なる無関心こそ「愛」だという…ホンマか!?
私が思う「愛」は“温かい~熱い”という温度があるイメージだったのですが
実際は温度のない全くの静寂なのかもしれません。
新渡戸稲造氏の「武士道」で自分のぐらぐら不安定だった心に
どーん!と「仁義(自分の良心に従う)」という柱ができたBBAです。
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そして更なる修行にと「禅」の世界に進んでおります。
何ものにも揺らぐことのない精神を手に入れるためです。
ですが、どうしても「理屈」で理解しないと
脳内にイメージできない低画質脳のBBA私…
瞑想も上手にできない私が「そういうことか!」と
思えた『西洋思想側からのぞい禅』の本がこちら
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ここまでの修行のふり返り
- この世界は変化する幻想世界
- 私が認識している世界とは「私の観念でできている」
- 思考する私、行動する私、それらを観察する第3の私
- 観念を強化しない=聖なる無関心=真の赦し
という感じで理解を深めてきましたが
本日は「聖なる無視=真の赦し」こそ「愛」って話です。
BBA的にはまだ理解度50%くらいなのですが
いずれ100%理解に達する時のためにも
学んだことをまとめておこうと思います。
「観念の無視」は真の赦し「聖なる無関心」である
幽霊を見た(幽霊が見えた)場合
幽霊が見える=幽霊がいるという観念があるということ
だから、そんな時は「幽霊」を無視すればいい。
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「幽霊」に関する一切の観念を強化しないように無視する
こうすることで
私も幽霊も共に解放されるんだって話は前回までにしました。
この観念の無視、そしてただただ現実世界を見ること
これは「真の赦し」であり、
冷酷非礼な無視ではなく「愛」であり、
『聖なる無関心』なんですって。
観念を無視し解放すること=聖なる無関心=愛
ここがわかるとその先(だいぶ先)に
感動的な「そういうことか!」が待っております。
「好き」の先に愛があるのではない
何で無視、無関心が「愛」なのさ??
って思う私に仙人は云うのです
「好き」の延長にあるものが「愛」ではない
むしろ「愛」の影が「好き」なのである
なぜなら真の意味において
愛とは根本原因であり
いかなる結果もまた愛なのだから
“それ”は在るより
(?-?)????
「好き」よりも「愛」のが大きく深いようなイメージはあります。
「すべての原因は愛でその結果もまた愛」だって!?
この変化する幻想世界の「変化」の原因も結果も全部「愛」だと??
そう、まだBBAの理解は「???」付なのです(^^;)
でも何となくわかったイメージでいうと
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あらゆる原因も結果も「愛」であり
好きが愛の影ということは…
好きの逆の感情→「嫌い」「憎い」「嫉妬」なども愛の影ですよね。
あらゆる感情も起きている変化も「愛」であり
部分でみると「愛の影」ってこと!?
もしや、目の前に現れる「嫌な奴」や「失礼な奴」とかも
愛に生きてたはずが愛がねじれまくって反転してしまった人なのかも…
そして、目の前のその人と私にも何か似ている部分があって
同じ空間にでくわしているのかも。
ここはもっと深い理解が必要な部分。
でも今のBBAにはこれが精一杯っす。
「聖なる無感心」は真理に通じる
ここからが更にややこしいのです。
「聖なる無関心」=「愛」
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愛は根本原因であり
いかなる結果もまた愛
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ゆえに「真理」とは
- 存在
- 気づき(超意識)
- 至福
これらのことを意識していくことで
それはまさに<私の解体のはじまり>
なんですって
この<私の解体>こそがエゴからの離脱なのです。
ん~BBAはまだまだ「??」と理解半ばですが
「聖なる無関心」というのがすべての修行の基礎になる
とうことはわかってきました。
聖なる無関心をコントロールできるよう修行中の私です。
では、また~☆
修業は続く。