私もずっと「怒らない=許す寛大な心」と思い込んでいた。
でも私が「いい人」であろうと頑張っていた頃に怒らなかったのは
「許し」とはほど遠いモノだったなぁと今さら気が付いた。
そのきっかけとなったのが
最近ずっと紹介しているこちらの本です。
↓
この本を読んで恐ろしいことに気が付いたのですが
その私が行きついた仮説を書く前に
書いておかねばならない気付きをここにφ(..)メモメモ。
今までのこの本からの気づきはこちら
今日は攻撃・破壊・支配欲の強い人ではなく
そのターゲットにされる人の抱える問題を掘っていこうとおもいます。
実際はこっちの問題の方が当てはなる人多いんじゃないでしょうか?
誰だって好かれたいし「いい人」でありたいし、そう思われたいよね。
でも搾取されたり、奴隷にならぬよう知っておくべきことです。
「我々の美徳とはたいてい偽装した悪徳にすぎない」
フランスの名門貴族でモラリスト文学者である
ラ・ロシュフコーの言葉として
他人を攻撃せずにはいられない人 (PHP新書)に紹介されている。
「われわれの美徳は、
まずたいてい偽装した悪徳にすぎない」
心臓痛い・・・・・。
グサッとくるね。
他にもグサグサくる言葉を残しているので
興味のある方は読んでみるべし。
新訳 ラ・ロシュフコー 賢者の言葉 世界一辛辣で毒気のある人生訓
- 作者: ラ・ロシュフコー,住友進
- 出版社/メーカー: 日本能率協会マネジメントセンター
- 発売日: 2011/12/24
- メディア: 単行本
- 購入: 4人 クリック: 5回
- この商品を含むブログを見る
他にも
「あまり利口でない人たちは、一般に自分のおよびえない事柄についてはなんでもけなす」
という痺れる今の時代を見ているかのようなものや
「われわれはみんな、他人の不幸を平気でみていられる程に強い」
「よい結婚はあるけれども、愉しい結婚はない」
などの言葉を残している。
更にこの「われわれの美徳」が何を意識し、どこに向けられているかも
嫌味なほど確信を突いてえぐっている(;;)
怒らない人の「寛大さ」とは何か?
怒らないこと=美徳
と思っていた私にラ・ロシュフコーに続いて
片田珠美氏が更なるパンチある言葉を放ってくる。
まず彼女は、怒らない人の寛大さをこう分析している。
- いいところ(広い心)をみせたい
- いい人と思われたい
- 罰を下すのが面倒くさい
- 後で復讐されるのが怖い
ということを示しているにすぎない。
「寛大さ」とは
虚栄心、怠情、恐怖の産物に他ならない
つまり、怒らない人の寛大さとは「赦し」ではないのだ。
確かに、結局私も不満を貯めこんでいただけだったからね。
無理して寛大なフリしとっただけなんや!
だって「いい人でありたいし、そう思われて好かれたいもの」
「いい人」とは「他人の欲求を満たそうとする人」
この本の著者は精神科医という科学者なので
容赦なく痛いところを突いてきます。
そこまで言うんか!?
って部分多め。
攻撃欲・支配欲の強い人にターゲットとして狙われる
いわゆる「いい人」の裏側を鋭く突く。
その正体は「他人に好かれたくて、他人の欲望を満たそうとする人」なのだと。
自分ではなく自分を評価してくれる人、好きてくれる人を中心に生きているため
攻撃・支配欲の強い人に支配されたり振り回されたりしやすいのだ。
結果彼らのいいカモとなり奴隷となる(;;)
恐ろしいのは彼らの支配下に置かれることで
その振り回されるストレスから
認知・思考・判断なども歪んでくるし、
しまいには認知・思考・判断力を失ってしまうんだそうだ。
やめて!!!
怖すぎっ
現実をきちんと認知できなくなり
支配から逃れるための思考ができなくなる・・。
そしてすべてを破壊されるまで彼らに飼われることになる。
やめて!!!
怖すぎっ
そこそこいい人で、そこそこずる賢いくらいがちょうどいい
だいたいの人は
半分半分じゃないだろうか?
そこそこいい人で
そこそこずる賢いくらいでいいじゃない。
って思っていれば気が楽だよ。
人から好かれなくても
この世に存在しているってことは
何かしら存在の意味はある!
意味があるってことは価値もある。
それでいいのだ。
誰かにすがって自分の価値を認めてもらって生きるより
よほど自由で気持ちがいいのだ。
「無理な寛大さ」やめました・・・独女みつまる。
いや、もうとっくにやめてたけども。
ムカつく奴は心の中で四肢バラバラにもぎっていたけどな。
では、また~☆