「あ!!」古事記の序文を読んで、私のこれまでの「世界のはじまり」の認識が間違っていたことに気付いた…この世界が今の形となったのは「禊+三貴子誕生から」だった!
古事記をなぜもっと早く読んでおかなかったのか…という後悔もありつつ、カタカムナの解読+日本語の音の神秘から、古事記へ興味を持った流れは正解だったとも思っている私です。
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(実際にこちらを何度も読んで、内容を考察中)
では、古事記の解読の続きへ~【古事記・序文の第三文へ】行くよ~
”所以に幽と顕に出で入り日と月と目を洗ふに彰れ、海水に浮き沈みて神と祇 身を滌くに呈る”
※これに読み音をふるとこうなる
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”所以(このゆえ)に幽(よもつくに)と顕(うつしくに)に出で入り 日(ひ)と月(つき)と目を洗ふに彰れ(あらわれ)、海水(うしお)に浮き沈みて神(あまつかみ)と祇(くにつかみ)身を滌く(すすく)に呈る(あらわる)”
→その二神が幽界と顕界を出入りした
→黄泉の国から還ったイザナギ命が禊にて目を洗った時に、日の神と月の神が出現
→さらに海水での禊(の時)により、この世に多くの天つ神と国つ神が出現なさった
という流れが示されているのです。
ここで私が注目したことをまとめておく。
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①幽(よもつくに)と顕(うつしくに)
一般に「幽・よもつ国=黄泉の国」、「顕・うつし国=葦原中津国」とされているようです。
しかし、これだけだと全体が分かりにくいので私なりに古事記が示す「全体像」をまとめてみました。
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「幽・よもつくに」が黄泉の国を示すならば、地球内部(内界)と外側世界で「幽と顕」で多く世界が二分されていると読み取れるのです。
「黄泉の国」はやはりエメラルド板が示すアメンティーのホールと同じ気がしますね。
②「彰れ(あらわれ)」と「呈る(あらわる)」
同じ「あらわれる」をわざわざ漢字を変えて表記しています。
そこには意図が込められているはず、「あらわれ方」にどんな違いがあるのか?
調べてみました。
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- 「彰れ」=立派な文様が外に現れる、あや模様がある、美しい飾りがある
- 「呈る」=正直でかくさない、むきだし、しめしあらわす
日神と月神の出現、この世に日と月が出現したことが「彰れ」と示し、他の禊で生まれた天神地祇については「呈る」と示しているのです。
「三貴子(天照・月読・素戔嗚)」が非常に美しく・立派な文様(特別な神霊力)を持つ特別な神だとわかる表現になっていますね。
三貴子はこの世界の大法則を示し司っている神々なのかも。
③イザナギの禊から「今のこの世界」が姿を現す
太陽と月に照らされた、その2つの力が大きく作用している「今のこの世界の姿」が現れたのはイザナギの禊の時だったのです!
私は造化三神の出現=この世界の現れ だと誤解しておりました。
古事記が示すように「この世界の形・今の姿」が現れたのは禊+三貴子の誕生からだったのです。(ここマジで驚いた)
ってことは、ですよ、万物の祖神である一対の夫婦神の決別から「この世界」は今の姿を明確に現したっておとでしょ!? そう、イザナギとイザナミの祖神の交わり(陰陽の調和的交わり)から 「我々の世界」がはじまったのではないのです。ショック…
そして「天神地祇」においても認識がかわった。
だと、わかってきたのです。
天神=天界にいる神、地祇=地上にいる神という認識だったのですが、その系統は大きくこの二神の縁の神々だと気付いたのです。
序文の第三文目にして、けっこうな衝撃を受けてボー然としてますが、頑張って解読を続けてゆきます。(つづく)