人は本来「悪魔」にも「神」にもなれる種をもって
生れてきているんじゃなかろうか?
そのバランスをとってる「心」が完全にぶっ壊れた時
『悪魔が来りて笛を吹く』んじゃないかね。
人間は無条件に「親は子を愛し、子は親を愛す」と思っていると
後ろから散弾銃で頭部を撃ち飛ばされる…それが現在社会が浮き彫りにした現実
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虐待され恐怖と痛みに耐える無実の子供達を救うのは
悪魔なのか、神かのか…あなたはこの映画をみて何を思いましたか?
映画:あくまのきゅうさい~あらすじ
※役者さんたちも映像も、作中の音・曲の使い方も
「いい」ので是非見て欲しい作品です。
虐待されていた子供による親殺し事件が
1か月の内に「この地域だけ」で3件起きていた。
11才のキラト君は
深夜、両親の寝室にバットを手に侵入し
寝ている両親に何度もバットを振りおろし殺害。
寝室も両親の遺体もキラト君も血だらけとう惨状に
現場の警察官たちも異様なモノを感じていた。
専門家によれば虐待により
子供達に「モラルパニック」が起き
善悪の書き替えが連鎖しているのではないか、と…
親を殺した子供たちには
その日・その時の記憶が無く
捜査は行き詰まりかけていた。
だがベテラン刑事「いのうえ」は
子供達の過去から「共通点」を見つけ
ひとりの保育士に行き着いた。
”この女は普通じゃない”
「いのうえ」にそう感じさせた保育士「あやね」
彼女はあっさりと自首し出頭したのだが…
「あやね」について調べていくうちに
彼女の壮絶な子供時代と半生に触れ
徐々に「いのうえ」の心の奥底に閉じ込めていたモノが
疼きはじめていく。
”虐待されていた子供による親殺し”
そこに隠された事件の真相とは?
果たして、人間に裁ける事件なのだろうか?
※以下、ネタバレ有の感想・考察いきます
◆子供達を「きゅうさい」したのは神か悪魔か?
虐待に苦しむ子供たちを「きゅうさい」したのは神か悪魔か?
私は、それは外から見た人の解釈次第であり、
本来は「同じ」なんじゃないかと思っています。
「あくまのきゅうさい」ではなく「きゅうさい」があっただけ。
それを悪魔の仕業とみるか神の仕業と見るか、そこは人間の解釈次第。
残忍だから、人を殺しているから「悪魔の仕業」ともいえないですよね、
神様だって聖書の中でたくさんの堕落した人間を葬ってるし、
都市ごと・人類ごと消しちゃうこともしばしばだし。
虐待されてた子供による「親殺し」の罪と
「子供を虐待し続けていた」親の罪と
どっちが重いんでしょうか?
これが「あくまのきゅうさい」だとして
救済前に無罪だったのはどっちですかね。
理不尽に苦痛を与えられていた子供たちではないでしょうか?
◆考察:事件の真相
これは私の勝手な「事件の真相」の考察です。
自首した保育士&いのうえ曰く「悪魔あやね」の壮絶な幼少期の体験
この時、犯人により見せられた異常な蛮行により
彼女の幼い心は限界を超え「空白」になったんだと思うんですよ。
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その「空白」になった時
今まで信じていた「善」の芽は枯れ
「悪の種」が急激に成長したのではないか、と。
ただ「あやね」の中に「善の根」は残っており
自分と同じように大人により閉鎖空間で耐えがたい苦痛を強いられている
子供達には敏感に共鳴し、そこから救ってあげようとするようです。
『人の心は脆く、抑圧されてきた想いの力は強大』
ということを彼女は自身の経験から知っていたのでしょう。
「あやねの囁き」=悪魔の囁き として力を発揮するのです。
弱っている子供や大人が胸の奥に隠しもっている「悪の種」を
その囁きの振動で覚醒させてしまうのです。
故に、彼らの心が与えられる苦痛により我慢の限界を超えた時
記憶が飛ぶほど「真っ白」になり、
「苦痛からの解放へ」全力で動きだすのです。
そもそも自分を傷つける、襲ってくる、恐怖を与える存在に対し
本能は「その存在を消す」ことを選択して普通ですからね。
あらゆる生命は「生き残る」ことが最優先ですもの。
いうなれば「虐待した親」による因果応報なんではないでしょうか。
こうなって当然の因果関係を先に結んだのは「子に虐待した親」なのです。
「あくまのきゅうさい」は、
この世界・宇宙にはたらく因果の法則の一部であり
「調整」だったんじゃないですかね。
つまり「法則性=神」だとしたら、神の使者。
救済された子供たちの言葉を紡いでいくと
「きゅうさい=解放」で与えられたのは「自由」だと。
子供でも大人でも「人間」として
ほぼ同じ力をもっていますからね。
テレビ放映が可能なら…是非多くの人に知って見て欲しい作品です。