あれ???
ジグソウってそんな目的で動いてたっけ??
混乱する私です。
ソウシリーズ好きなんですけど
ジグソウの弟子が彼の後継者を名乗ることで
「ソウ」1作目からの「命を軽んじるモノへのショック治療」的要素や
観察者としてのジグソウの哲学が消えていくように見えるのはなぜか??
ジグソウ:ソウレガシーがプライム会員特典になっていたので
やっと観ました~☆
今回も装置がかなり手の込んだものになっております。
大きな装置や仕掛けも多め!
ジャケットにもある、このゲームスタート第一ゲームの
このブリキのバケツ!!!
バケツを逆さにしてかぶせているんですが
バケツの上につけた解除装置の方がすごいのよ。
殺人器具つくるの・・・楽しんでない??
色々な思いをのせて~
ソウ・レガシーの考察と感想行ってみよう!
今回のゲームは「罪の告白」がテーマ!?
今回のゲームは各ステージ(?)通して
「自分の罪を告白せよ」とジグソウはいい続けている。
集められた5人は
みんな間接的に人の死に関わっている人ばかりが集められたようだ。
- 強い殺意の元殺したわけじゃない
- ワザと殺したわけじゃない
- 怖くてその場を逃げ去っただけ
- あれは「事故だった」
彼らは誰一人、直接その被害者たちを手にかけてはいない。
その分彼らはその死に自分が深くかかわっているが
「私のせいじゃない」「俺に罪はない」と思ってきたようだ。
でも彼らは
間接的にしろ「自分の欲や身勝手」により
人の命を奪っている。
彼らが「私のせいであの人を殺してしまった」と心から認め声にだせるのか?
自分にせまる死の恐怖がそらし続けていた罪の正視に向かわせるのか?
「命を軽んじるモノへの荒治療」という点では
ターゲット選びは一貫しているのかも。
でも衝撃の「ソウ」シリーズ1作目から
だいぶゲームが変わったような・・・・。
一番シンプルなゲームにして、最も心にせまってくる1作目!
↓
どんどん大がかりになるゲーム装置
回を重ねるごとに
ゲームも仕掛けも装置も大がかりになっていくのは
ゲーム仕掛け人側の「エゴ」の増幅なのでしょうか?
自分の力の誇示ではなかろうか?
ゲーム参加者たちの運命と命を握っている感に酔ってはいないか??
- 人に恐怖を与えること
- 人に痛みを与えること
- 人に絶望を与えること
- 人の醜さを引き出すこと
こっちに目的が移ってしまっているように思えるんですけど。
ジグソウひとりの時が一番ブレがなかった。
弟子と共作したり
弟子が後継者としてゲームをすることで
ジグソウの哲学は変わってしまった。
装置が大掛かりになるほど
力の誇示に見えてしまう。
遂に「死者の代弁者」を名乗るジグソウ
今回私が心底ビックリしたのは
ゲーム仕掛ける側のジグソウ(後継者)が
「私は死者の代弁者だ」と言い放ったこと!
もう「命を軽んじるモノに命の重さに気付かせる治療」でも
なんでもなく
無念の死を遂げた者に変わって悪を斬る!
みたいな闇のヒーローになってますやん!?
もうゲームの参加者に罰を下す気満々ですやん。
改心が目的であり
生き残りのチャンスを与えるんじゃないのか??
正義で悪を叩くことは人間の万能感を刺激する最大の快楽!
「ソウ」のジグソウの哲学というか
静かなる観察者である彼はなかなか好きだったのになぁ。
最近読んでいるこちらの本にも通じる話ですが
これが人のありのままの姿なのかもしれません。
人が人と関わるとき、そうしても
- 好かれたい
- 慕われたい
- 大事にされたい
- 支配したい
- 自分の思い通りの関係にしたい
など欲が動きます。
だから人と人との関係に100%綺麗な関係って実はない気がする。
利害と支配・従属関係が根底にはあるし
欲と愛と情が絡み合って歪みやすい。
この本にも「正義で悪を叩きのめす快楽」について書かれています。
読んで「あーやっぱりそういうことかぁ」と納得。
人は人の更生や改心を心から信じていないし
罰を与えることの方を望んでいるようですな。
でもその深層心理は正しいようにも思う。
人は他人や外部からの力では絶対に変わらない。
自分の意思でしか変わらないからね。
最後の処刑シーンは
なんかSFでした。
八つ裂き!
生(?)ではじめてみた!!
では、また~☆