古代日本の智恵をより深く理解する為に
現代科学の智恵をもって我が視野を広げようと量子論の世界に寄り道中っす。
量子・量子論が世にその産声をヒビかせたのが1900年12月、
ベルリン物理学会のクリパを兼ねた講演会で
プランクが「エネルギー量子仮説」を発表した。
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この時「量子」という考えが世に放たれたわけです。
今までの常識を打ち破る「量子」は光の研究から生まれた。
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ならば「それまでの常識」を光の研究の点から見ていこう!
ということで光の正体に挑む人類の歴史を17世紀から振り返ります~
光は「電磁波の一種でしょ」と流す前に、
では自分はその光を構造から脳内でイメージ描けるかを確認しながら
偉人たちの考察を見て行ってほしい。
◆17世紀:光の粒子説
光の正体に迫まる科学的研究は17世紀に本格的に始まったそうです。
(私の推測では古代人はその正体をもっと深いレベルで知っていた気が…)
『光の粒子説』を唱えたのは我らがニュートン先生なんだぜ~
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太陽光をプリズムに通すと透明に見えた光が虹色の光となって現れることを発見!
この現象をニュートンは「七色の光に分かれた」と視たようです。
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故に、『光とは様々な色を持った”小さな粒子”が集まったモノ』と考えたのです。
この考えは「物体に光を当てると背後に影ができる」こととも整合性がとれる。
光の正体は「波」or「粒子」で議論が進んでいたから、
その点でみると「波」じゃ無理だけど「粒子」なら影の説明つくよね~ってことかと。
※光⇒物体(自分)⇒影 ができる現象をよくもいだしておいてほしい
◆17世紀:光の波動説
こちらはオランダの物理学者ホイヘンス氏がとなえた。
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2つの細い光線をぶつけても
『光がお互いを通り抜ける様に進んでいくのは”光が波であるからだ”』
と考えたんですって。
「光が粒子だった場合、衝突後にそれぞれの粒子が進む向きが変わるはずだ」
ということらしい。
ほほ~では「物体にできる影は?」という疑問に対しては
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『障害物の大きさよりも波1つの長さ(波長)が小さい場合、波はほとんど回避しないで物体に遮られる、光は非常に小さな波長の波である』
と考えられるだってよ~
◆光は粒子or波?の前に私が気になった事
どちらの考察も素晴らしい、と私にもわかる。
んが、ここで改めて二人の考察に触れてみると
私なりに気になる点がでてきた。
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- 影って真っ黒じゃないよね?
- ”光がお互いを通り抜ける”ように進んでいく⇒「光が通りぬける」
光はプリズムを通りぬけて、色に分かれてたよなぁ…
光が「通りぬける」モノ(時)と「通り抜けられない」モノ(時)の違いって何だ?
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こんな事を考えていたら
「物体にできる影」も真っ黒(漆黒)じゃないから
もしかして僅かに通り抜けてるんじゃ…特に人間の影とか見ると…って気になりだして
やっぱすべてのモノは「エネルギーの一時的状態」であり
物体はエネルギーの凝集体だから、そのエネルギーが凝り固まった壁を
通り抜けられる光(エネルギー)と抜けられない光があるだけなんじゃ…
ちなみにカタカムナから読むと
光は「ヒカのアマ+カムの潜象根源力が分離した時に現れる現象」で
「ミ」の音が示す意味に「実体・光」があることと、
古神道で「カミ=火水」という示しがあることから、
「水」はカヒから⇒「光+オモタルをもった物体化エネルギー」なんじゃないかと。
そんでな、その水てのはヌン(始源の大空虚に満ちてる大洋海水状のエネルギー)の写しでアマ界の浄化が働いたものじゃないか、と。
(つづく:気が狂ったように見えるかもですが、私は元気っす)