3節目で見てきた「照見五蘊皆空」を思い出す…
⑭で見てきたこの前の一節にある「無色」が続くこの一節と繋がると
「五蘊」をさしているいることに気がつきますよね。
是故、空中 無色 無受想行識
この世界の一切の真実は空であり
空の中に色は無く、受想行識も無い。
⇓
この「色受想行識」を
「私」と「私が見ている世界」の
両方から解読していこうと思います。
「私」:無色、無受想行識
本来は「私」と「私の見ている世界」を分けるべきではないのかもしれませんが
まずは自分が理解しやすいように分けて解読してきます。
色・受・想・行・識
⇒人間を構成する肉体と精神の5分類
色=肉体、身体
受想行識=精神作用
だから
この世の一切の真実は「空」なのだから
空の中に「私」という肉体は無く
感受し、想念し、分別し、識別する心も無い。
この世の真実、この世界の実相の中で
「私」という絶対的な実体は無いということか?
私が私を見つめる時に「自我」が現れるだけってこと?
私が見ている世界:無色受想行識
今度は「私が見ている世界」が無色受想行識として解読していきます。
色=見えるモノ、物質的存在
受想行識=感じていること、色に対する認識
「私が見ている世界」の見えている物事(物質的な存在)
また見て感じ、認識しているものもその本質・実相は無であり空なのだ。
私の内と外のすべてが無識 無受想行識
ここで2つに分けた解釈が繋がります。
私の内(自我)と
私の外(私が見ている世界)は
どちらも無色無受想行識。
私の内と外の境界線が無くなっていく。
私が「私」と思う時
私の中で色・受想行識を通して「我」が現れるが
それはこの世の実相ではない。
私が「目を向けて見つめているモノ」も同じ。
私の内と外の境目は無く
空の中に色・受想行識は無いが
私が目を向け、見て感じる対象を知ろうとするとき
私の中に「この世の実相と別の私の世界」が姿を見せるのかぁ。
大事なことは実相「空」を忘れずに
「私の認識している世界」にのみ込まれない事かな。
般若心経を理解しようとすると
時々、思考がバグります。
いつか、ストンと腑に落ちて
「そういうことかぁ!!!!!」
って雷に打たれたように感覚的な理解に突き抜けたい。
BBAの修行は続く