では、古事記序文の解読のラストへ~
カタカムナ+日本語の響きの秘密、日本神話に隠された「伝承されるべき叡智」を知る為には、やはり古事記を読んで理解しておかなければ!と思いたち、さっそく古事記解読にとりかかった私です。
私はこの「古事記」本を買いました~
やはり、日本語は「音」が先にあるようで、その大事なことば成す音に、意味を理解しやすい様に漢字が当てられている…って創りなようです。
古事記もそういった創り・表現になっているよ~
では、古事記・序文の最後の一文へ
歩むと驟くとおのもおのも異に 文れると質なると同じくあらずといえども、古を稽へて風の猷を既に頽れたるに縄したまひ、今を照らして典の教えを絶えなむとするに補ひたまはずということ莫し。
(古事記・序文より)
天皇たちの治世の総括(?)みたいな一文です。
序文の〆の一文ですからね~
では、「先に音があった」ということで、読み音を確認していきましょう。
↓
”歩むと驟く(うくいつく)と おのもおのも異(こと)に、文(かざ)れると質(すなほ)なると同じくあらずといえども、古(いにしへ)を稽(かむが)へて風(のり)の猷(みち)を既に頽(すた)れたるに縄(ただ)したまひ、今を照らして典(のり)の教(おし)へを絶えなむとするに補ひたまはずといふこと莫(な)し”
歴代の天皇の治世では 歩むと馬が走るが如く疾走するように緩急と華朴(華やかさと素朴)が循環している。それぞれの治世に相違はあるが、一貫したものが在ると示されている。
↓
それは何かというと、
『いずれの天皇も』古の聖(聖賢)の教えの道を根底に置き、その教化と道徳が既に廃れ崩れてしまうという時には、しっかり正し 今を照らした。
常に守り伝えるべき「古の聖の道(その教え)」が絶えることがないように補い正すことをなさらないことはなかった。
ここで私が気になった「ことば」をチェック。
- 「稽」=かんがえる、とどめる、とどまる
- 「風の猷」=風猷(ふうゆう)の意→教化と道徳 (※猷=はかる、はかりごと)
- 「典の教へ」=教典(基本となる教え、その書)
- 「縄したまふ」=正したまふ
「風の猷」って「風のはかりごと」って意味になるから…各時代に起きる「謀」かと思ってたら~真逆だった。「風猷(ふうゆう)=教化・道徳」という言葉があるので、「風の猷」とは「天の猷(天の意による計画)」のことなんだろうと理解できた。
古の聖の教え=教典があり、天皇が大事にされていたということは…やはり神代から伝えられている「正しき生き方・在り方=正道」があるってことだよね。
興味深い表現の1つ「文(かざ)れると質(すなほ)なると同じく非ずとも」
この意味が気になって調べてみたところ、
↓
「文なると質なる」=文字で表現された理想と実際の姿(実質) なんだそうです。
けっこう味わい深い言葉なんだなぁと思った。
神の創造では「(神の)言葉」がこの世界を創っているとされている。
神の創造は「文なると質なるは同じになる」のに、人の世はそうではないと示されている。「文と質が同じに非ず」ということが起きるのだ。
その理由がここの示されているんじゃないか、と私は考えたのです。
「神の教え」「聖の道」から外れた時、人の世では「文と質が同じにならない」という事態がおきでしまうのではないか、と。
だから、神の言葉を受け継ぐ「天皇」が各時代 でそこを正してこられたんではないだろうか。
最後に「縄」に「正す」と言う意味があるということ。
「しめ縄」は神が降りたつ神聖な場所を示すものですが、「世を正す」為の神象なのかもしれません。日本の「縄文時代」という名称もとても深い意図が込められているのかも。
(つづく)