「陽徳」という言葉は「陰徳の対義語」であるが、
もう1つ、とても壮大な意味をもっているようだ(すげぇ)
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では前回の「陰徳を施す」(陰徳を積む)の続きにピッタリな安岡先生の言葉をどうぞ
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竹影堦を掃って塵動かず。月輪沼を穿って波痕なしというが、常に私はこのように暮らしたいと思っている。自ら語りたい書きたいという機が動くこともあれば、義理に迫られてなさねばならぬことも多い。活機は大いに用うべし。義理は十分尽くさねばならぬ。
しかし、その跡を表そうとするのは未練である。執着である。私心である。私は大自然のようにすべてなるべく痕迹を留めぬことを心がけている。
(『童心残筆』)
どうやら”自然の美しさ・優美さはその痕跡をいつまでも残そうとしない”ということを謳った禅の言葉を引用しての「陰徳を積む」の示しっぽい。
そもそもの禅の言葉では「深い池」や「澄んだ池」を指しているが
どうして安岡先生が「沼」と表現したのかは私にはわからん(‘~‘)
「自然の美しさ=調和の美」は「天意に調和した人の生き方」を指すものでたぶん「仁義・誠・愛」に生きるってこと、つまりは徳を積み己を磨くってことだろう。
”活機は大いに用うべし。仁義は十分尽くさねばならぬ”が、
- そのことを他人や世に知らしめ、認められ称賛されたいという欲
- 成した事=過去にすがる執着
こういった未練や執着の「私心=利己心」は捨て去り、
己の成すべきことに集中しなさいってことだろう。
大自然は美しい、ということは「調和した状態」なのだ。
大自然の在り方から、学ぶべき生き方が見えてくるものですね。
「今、今に調和した美を創造し続けている」偉大な存在やね、大自然って。
黙々と成すべきことに集中して取り組む、無我夢中の境地で。
これが偉大な哲人が見つけた人の生き方の本質であり、正道ならば、
今の『SNSで目立ってなんぼ!』って動向って…やはり悪の手引きによるものなのか?
自分を常に見つめてくれているのは「自分自身」と「天」だから
自分と天に恥じない、自分と天に認められる生き方をすればいいのさ~
もっと簡単に言うと「自分の良心に従って生きる」これだけでたぶんOK!
自分の良心を裏切らなきゃ、大体OK、人として素晴らしいよ。
(つづく)