なるほど、武士道の教えにもつながる話やなぁ。
やはり日本人にとって「敬」は高貴な人物への道しるべなんやなぁ。
私が尊敬する賢者にして偉大な哲人・安岡正篤氏はこんな人
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では、本日は一緒に心の八柱(八神)の1つになるであろう「敬」の心を学びましょう。
「敬」について語る安岡氏の言葉からどうぞ、
敬という心は、言い換えれば、少しでも高く尊い境地に進もう、偉大なるものに近づこうとする心だ。従ってそれは同時に自ら反省し、自らの至らざる点を恥ずる心になる。
省みて自ら懼れ、自ら慎み、自ら戒めてゆく。偉大なるもの、尊きもの、高きものを仰ぎ、これに感じ、憧憬れ、それに近づこうとすると同時に、自ら省みて恥ずる。
(『人間学のすすめ』)
「あ、そうか」と私が今まで「敬」の一面しか見えていなかったことに気づかされた。
「敬は尊敬の敬」で、素晴らしい人・モノを認め受け入れられる心を指しているのかと思っておりました…
そうか、相手の偉大さ・素晴らしさに気が付く・認めるってことは
「同時に」自分の至らなさに気付き・認め・恥じることでもあるのか(確かに)。
私なんてバカだから「相手を認められる自分、すげぇ」とか心の中で自分褒めしてたよ~確かに、恥ずかしい…
「敬」というのは相手の素晴らしさ・偉大さを認めるだけではなく
「自らもそこに至る」ための転機にせねばならなかったのですね!
本当だ、こうやって考えると「(自分が認識する)他人はすべて鏡に映った私」なわけだわ。鏡に映しだされる像は反転してたりするけども。
「敬」の心は高みを目指す気持ちと、謙虚さを己にもたらしてくれるんですな。
φ(..)メモメモ
だとしたら…「軽蔑」の「蔑む」ってのもまたその相手は自分の鏡写しであり
傲慢さをもたらす危険があるのかもしれませんね。
(つづく)