もう1つ大事なことがある。「愛」と同等に大事なものが。
私が尊敬する賢人・哲人「安岡正篤」氏ってこんな人
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子どもの教育=子供の人格形成(徳慧の学び)には、「愛」だけでは不十分だという。
子どもに愛情を注ぐだけではダメなのだと。もう1つとは何でしょうか?
安岡先生の言葉をどうぞ
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いたいけな子どもは愛で育つと、今までもっぱら力説されておりました。『論語』や『孟子』などを読むと、それだけでは足らぬ、さらに「敬」が必要だと書いてあります。
子どもは愛を要求すると同時に「敬」を欲する。可愛がられたい、愛されたいという本能的要求と同時に、尊敬する対象を持ちたい、そしてその対象から自分が認められ隊、励まされたい、という要求を持っています。その愛と敬が相まって初めて人格ができていく。愛の対象を母に求め、敬の対象を父に求めます。
(『運命を開く』)
「こども」に限らず、これは大人になった我々にも重要なことではないでしょうか。
人格を練るには「愛と敬」を知り、己の内に持つことが大事だと。
ずっと「聖書」に描かれている「父と息子」の関係に不思議なモノを感じておりましたが、今回の安岡先生の言葉を聞いてわかってきた気がします。
息子にとって父は「超えるべき壁」であり「脅威」であり、「認められたい相手」と描かれているのは、「尊敬する対象の要求願望」からくるものだったのですね。
もっと父子の因果関係からくるものかと勘違いしてました(^^;
父親にも母性があり、母親にも父性がありますから
「親」というのは、子供にとって「愛と敬の対象である」ということでしょう。
子どもに愛情を注ぐことで、子どもが”愛されたい”という心を充たすだけではなく、「愛をもって人に接する=愛情を注ぐ側」になっていくことが大事なのですな。
そういった「人としてあるべき姿」で子どもと接することで、自然と子どもは親を「尊敬すべき人物」と認識し、その師たる親を見習い人格を練っていくのですな。
これは何も「親」に限ったことではなく、すべての大人が「愛と敬」の師となれるよう子供たちに接することで「社会全体」で子どもが教育されていき、「愛と敬」をしっかりとした基礎に持つ社会・国に成るということでしょう。
愛と敬を知ることで、未熟な振る舞いや身勝手な言動をした時に「己を恥、自ら反る」人物に成っていく。「恥ずかしい」と思う気持ちは、尊敬するような人格に触れた時に起こるものなのだそうです。
私としては立派な大人になる為に「武士道の精神」がよい学びになるかと思ってます。
まずは我々が”子供たちから見て” 尊敬されるような人物に成らねばならないし、愛を以って接する・生きる姿をみせていなけばなりませんな。(ほんと、日々修行だわ)
(つづく)