今日は世界に平和と平安をもたらす「根源」と成りうるのではないか、と私が思っている安岡先生が説く大事なお話っす。
私が尊敬する賢人・哲人「安岡正篤」氏ってこんな人
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世界に分断をもたらす根深い「宗教問題」、信仰による対立は無くならないのか?信じる神が違うとしても「尊い存在(教え)」を信じる人々という点では同じなのに。
子どものころから疑問に思い続けているが、歴史的な複雑な背景を知り、流された多くの血の遺恨がとんでもなく大きな力となっているわけだから…「しかたない」ことだと思っておりました。
しかし、複雑な問題ですが、逆に「宗教」のその根源にあるものをよく見てみると実はとてもシンプルで美しく単純な形の核から成っているように見えてくるのです。
そのきっかけとなった安岡先生のお話がこちら
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西洋では物を終始分けて考えたり、説明することに長じています。明治以降われわれはこの西洋流の思考方法になれた。それが画一的に支配するようになって、宗教と道徳というものを、截然と何か二物にごとく分ける考え方が普及しました。
~(中略)~
両者は一体のものです。ただ表現、現れ方が違うだけです。要するに人間に一番大事な失ってはならぬものは敬と恥です。敬う、参るということと、恥じるということ、恥じるから慎む、戒める、修める。敬うからそれに参る、侍る、あるいはすべてを捧げるというような没我になるわけです。
(『日本の父母と青年に』)
この話で重要なのは「宗教と道徳が一体のもの」ということ以上に、その根源にあるのは「敬と恥を知る心」だということです。
だから自然と人間は「宗教」や「道徳」をとても大事にしているのではないでしょうか。
聖地がどこか、最も偉大な神は何か、どれが本物の神であり世界の根源なのか、ということは関係なく世界中の人がそれぞれに「敬と恥を知る心」を大事にしているというのが異なって見える「宗教=信仰」の正体ではないでしょうか?
宗教という言葉を「道徳」に置き換えれば、皆が各自で「徳慧の道」歩み人格を磨いているという姿しか見えてこない。互いに尊敬し合えるし、尊重できるのではないだろうか?
同じ道を歩む「同志」として理解し合う(和する)ことも可能ではないだろうか。
信仰ある人達は本来同志であり和することができるはず…となると、信仰ある人達の対立の裏には「信仰無き人・神をも恐れず・敬も恥もない人」達がいるのではないだろうか? そんな考えがふと浮かんできました。
とにかく、大事なことは「人間一番大事な失ってはならぬものは敬と恥」だということ。自分がどうあるかに集中して生きることに徹しよう。
(つづく)