無名無力=実は「無名有力(信念から湧く強い力)」のなのですが、なんとなく「無名有力」という字からのイメージだと「裏で糸引く権力者」っぽいので…
「無名無力な人の活動」として、今回の話に触れていきたいと思います。
私が尊敬する賢人・哲人「安岡正篤」氏ってこんな人
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安岡先生は生涯「教育者」として、「徳慧の学」を説き、優れた人格たる国民・国家による真の繁栄を目指した方だと私は認識している。
恵まれた生まれや高い学歴による「人脈」には恵まれていたかもしれないが、ご本人は政治家でも実業家でもなく 一教育者に徹してられたので 政治や経済に直接介入したり手を回せるような力(権力・財力)は持たずにいた方として「無名・無力」とここでは呼ばせていただくことにしました。
前に教育・徳慧の道を説く「命」に生きる安岡先生に対し、
『極めて少数の者にしか通じそうもない学問を、何の為にそう熱心に没頭するのか?』ということを問う人が多々あったらしい…という話に触れました。
その問いかけに対する、安岡先生の「回答」ともいえる話っす。
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こちらの本に書かれている安岡先生の言葉(考え)を紹介したい。
本当に大切なことは少し時間がかかるけれども、藤樹や藩山とかの思想を学ぶ先生や生徒を一人でも多くつくることである。それは長い時間がかかるけれども、そのうち必ず人生、民族・国家・世界を刷新する。すぐれた維新・革命の歴史をみても、最初は必ず優れた精神・自覚を持った志士が現れ、苦労して時代を大きく直しておる。迂遠なようであるけれども、それが最も根本であり、実は最も道が近い。
(『人間学のすすめ』)
【「刷新」とは】
→それまでの悪い面・弊害を一掃して、事態をまったく新しいモノにすること
民族・国家・世界を刷新する、それには”優れた精神・自覚をもった志士”が必要で、そういった人物を育てていくことこそが国を刷新する基礎になるということだ。
当たり前のことのように聞こえるかもしれないが、安岡先生がこのことに気付いたのは実際に若い頃に政治活動に身を投じた経験からきているそうだ。
国政を目指す同志たちに触れて実感したという。
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自分の中にも厳然としてある、卑屈な人間の欲や業を矯め直そうとして苦しんだことのない人間が政権を取っても、また再び我欲の政治が行なわれるだけだ
だから、安岡先生は「人物を育てる」ための教育に心血を注いだというわけだ。
政治の現場を見て・触れて、強く感じたというのだから、相当な危機感をもって教育に臨んでいたのでしょう(;;)
「日本民族・国家を刷新する」というとんでもない偉業(命)に挑んでいた安岡先生の活動は、無名無力な人の地道な活動だったのです。
私のような末端の国民でも「安岡先生の言葉・教え」に時代を超えて触れられるというのは先生の志と活動のおかげです。これが先生の撒いた種の芽となり、いずれは大樹となるように私もしっかり先生に学ばなくては。
私は真に「無名無力」ですが、少しでも多くに人に安岡先生の言葉や教えを知ってほしいので、こうしてブログでわずかな発信を続けております。
(まー、ほとんどは自分の為、自分の中に先生の言葉を落し込むためですけどね)
有名でなくとも、権力も財力も無くとも、こうして真実の教えや言葉は残り伝えられ続けるという現実を見せてくれている安岡先生の教育活動はやはり「偉業」だと思うのです。
(つづく)