T・カーライルの言葉を引用して、「地の塩」たる人々の偉大さと大切さを説く
安岡氏の言葉には心に刺さるモノがあります。
私が尊敬する偉人・哲人「安岡正篤」氏はこんな人
↓
では、今日も胸に響く 安岡先生のお言葉をどうぞ。
「軽薄な言葉、浮薄な行為の絶えぬ、騒々しい世のつまらなさを観ずれば、思考は好んで沈黙の偉大な王国に向かう。高貴な静かな人、それは処々に散在し、それぞれ己の本領に生きる。静かに考え、静かに行ない、新聞に載ることもない人々!
それは誠に地の塩である。」(T・カーライル)
時代の悪風ー今日の子どもは物を知ろうとするが、教えを受けようとする気持ちがあなくなった。
(『憂楽秘帖』)
まず、T・カーライルの言葉がまるで「今の世(現在)」のことを指しているようでグッと胸が詰まるような、息ができなく苦しいようなものがある。
加えて、安岡先生の「時代の悪風」の指摘が更に喉と胸を締め付けてくるものがある。
みんな知りたがりだが、人の教えを受けようとはせず「スマホで調べる」時代だもの。
でもスマホで検索してパっと得られる情報には「地の塩たる人々」の声も教えも出てこないだろう。ネット検索も「広告業界のシマ」になったしね。
SNS社会になって 軽薄な言葉・浮薄な行為が増え「拡散・炎上」で目立つようになり
”騒々しい世のつまらなさ”は更に加速しているのかもしれない…
でも、こうした世の中でも「己の本領で生きる」高貴な静かな人々は存在している。
沈黙の偉大な王国に「地の塩」たる人々が在るのだ。
そういった人達のように生きるかどうかは「今、私自身が決める」ことができる。
なるほどな。
この世界を穢れや汚れから なんとか必死に守ってくれているのは
こうした「地の塩」たる人びとの存在のおかげかも。
命に目覚めた人びとは「静かに考え、静かに行動」している。
今日は1つ大事な「人を見る目、モノを見る目」を得た気がします。
(つづく)