剛体のむすび(禊)がなされると、自己のみではなく…
カタカムナー古事記の解読中ですが、カタカムナ2周目に入る前に~
人の意識にも「潜在・顕在」意識があるように、肉体にも「潜象カム界と繋がる潜在の力」が内在しており、覚醒のスイッチがあるんじゃないかと探索中
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肉体覚醒・肉体の正しい使い方(正道)を探る私の前に現れたのが、合気道の祖・植芝盛平氏の「むすび合気」の世界だったのです。
(※こちらが私と盛平氏の出会いの書)
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”一霊四魂三元八力×天地人のむすび=むすび合気(武産合気)”
(私の解釈による、合気道が目指す「到達点」)
これらすべての「大合一」に至るまでに、それぞれの「むすび」がある。
では、三元(三体)の内の1つ「剛体の武」の続きへ
剛体(個体)=骨から発せられる”真の力”を覚醒+使いこなすためには、
- 正しい姿勢
- 重心の安定
この2つの会得が大事!
それによって、「剛体の力を練る」ことができるようになると、当身も大きな力を持つことになるという。
(※当身=当身技ー(急所を)突く・打つ・蹴る・当てる)
んで、ここまでは「己の内なるむすび+己の真の力の覚醒・活用」ですが、盛平による「合気道」では”この先”が示されているのです。
ぶっちゃけ、ここからが合気の神髄ではないだろうか、と思えるものっす。
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”自らの剛体が浄化(真の武=禊)されると、相手の剛体との「むすび」も可能になる”
相手の剛体と「むすび」がなされるということは、相手の剛体が自分の剛体と同じように「わかる」し、意図的な「作用を及ぼせる」ということではないでしょうか?!
相手の剛体を「自分の剛体の延長に在る」と思えるし、実際そうであるって感覚か!?
相手の剛体を「私の意志・意図で自由に操れる」という域(達人)までいかなくとも、「相手の身体の状態・これからどう動くのか」ということが『むすび』でつながった「私の意識・感覚」で把握できる、ということは十分可能っぽい。
合気道の「当身=実践への応用」は、打つ・蹴るなどの技の精度や強さというよりも「力への集中」を用いることにあり、そこから自然と体が動くことをいうようなのです。
そもそも「殺」「破壊」の武術・武道ではないのです。
「剛体の武」には”幸魂が働く”と盛平氏が説くのは、
剛体(骨・背骨=天之御柱)が「むすび=産霊=結び」を成す「愛=慈愛=幸魂」の働きの基盤である ということなのです。
わかりにくいかもしれんが簡単に説明すると
- 剛体(背骨=天之御柱)が「むすび」の基盤
- その「むすび」の根源は、調和(合一)に導く「愛(慈愛)」の力
ということなのです。
自分の背骨・骨が「天を私をむすぶ」「天地と私をむすぶ」「私と全てをむすぶ」
”天之御柱”だと意識・イメージすることが剛体の武のハジマリかも。
(つづく)