そういうことか~向上心とか立派な人物に成りたいとか、世の中に役立つ存在で在りたい…という気持ちがどこから来てるのか?が分かったような気がします。
私が尊敬する賢人・哲人「安岡正篤」氏ってこんな人
↓
では、今日も安岡先生の言葉に耳を傾けましょう。
この造化無限の勤労に対するおのずからなる反省が、無意識的に我々を厳粛にし、我々を涕泗させる。それは造化に対する人間の限りない感恩の情が籠っておる。
また、かくして生まれた我々が、茫漠たる天地に限りない自他の姿を発見して。これからおのがじし道を歩まねばならない不安と同情と覚悟とが潜んでいる。懐かしくも奇しきは造化と人生とである。
(『東洋倫理概論』)
実はこの先生の言葉の前半部分は何となく理解できておりますが、後半部分はまたちょっと靄がかかったような感じでしか理解できておりません(--; 恥ずかしながら…
私たちの心(内)に湧く、
- 立派な人物になりたい(ならねば)
- 世の為、人の為に役立つ人でありたい(あらねば)
- 常に己の成長・繁栄を願う
こういった気持ち・意識・感情というのは、この世界(神・宇宙・根源)の造化活動=無限の勤労に対する「自反」からくる、厳粛な涙であり感恩の情だというのです。
つまり、この世界の造化活動(神の造化)への敬意と”私も参加したい”という気持ちが人の内に湧きだしており、その為に変化・成長・繁栄(拡張)を続ける「この世界」と融合(合一)するために「己も成長・繁栄せねば」と自然と思うわけですな。
そして、造化に参加したいといく気持ちが「役立ちたい」という思いを湧きたたせるのです。
たぶんSNSで「自己顕示欲」が暴走している人達も、本来はここから湧き出た気持ちや感情だったものが「他人に認められたい」「世間に認めれたい」方向に大きく歪んでしまったのものかもしれないね。
自己の成長・繁栄への変化を「他(外)からの認識」に依存してしまった結果の歪みと暴走なのかも。少なからず現代に生きる我々の心にはこの「他からの評価」「他から見た私への認識」に対する期待や不安っ皆もっているもんね。
自分の中に湧く「成長・繁栄を願う気持ち」が、造化に対する「厳粛な涙」「感恩の情」から来ていると自覚すると、その歪みはとれ本来向かうべき道へと自己修正できるのでは…そうであってほしい。
「立派な人間にならなければならない」「社会に役立つ人間にならなければならない」って恐怖や不安は間違った認識で、「そうありたい」と思う気持ちを素直に認め、自分と社会(世界)の共なる繁栄を願っている本心に気付くと 期待や希望が見えてくるのかな。
(つづく)