やはり、人の命は造化(創造)にあるのかぁ。
日本の偉大な哲人・安岡正篤先生に初めて触れる方はこちらがおススメ!
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ここを経ての~
「こちら」を是非
では、今日も魂の自由と「真の主体性・創造性を以って生きる」ための
本日、深く心に受け止めたい安岡先生の言葉がこちら
「命(めい)は造化の機境である。造化は絶対自慊の流行であって、我々はかくあらねばならぬからかくある、かくあるよりほかにどうもありえない。すなわち何事も命だ。我々は造化に委順するよりほかはないに相違ない。
これは前半部分なのだが、まずはここを理解しないといけない。
”命は造化の機境である”
この「機境(ききょう)」の意味からして私はわからなかった…(--;
造化の機会・時機+造化の境(さかい・境界)ってことだとすると
『命は造化のハジマリ・造化への目覚め・造化の覚醒』こんな感じだろうか?
”造化は絶対自慊の流行であって”
もう次の「絶対自慊の流行」って意味がまたわからない(‘~‘)
どうやら「絶対自慊」とは
- 絶対=なにものにも制限・拘束されず「それ自体」として存在すること、他との比較対立を絶していること、並ぶもののないこと
- 自慊=自分で心から満足すること
と、いうことらしい。
その「流行」ってのは「=流れゆき、広まっていくこと」らしい。
造化という言葉の説明にもなっているようだから…「絶対者=一なる者」の造化の一部に我々の命は在るってことかな?
だから絶対者の創造の流れの中に身を置く以上、その流れに委順するしかない、と。
未だにぼんやりしてますが、後半部分を読むと
なんとなく云わんとされていることが見えてくるんだよ、不思議。
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しかし、それであるからといって消極的無為の生活に陥る第二種的の宿命論には、なるほど根本的誤謬がある。
それは造化の造化たることを知って、人が造化たることを知らない。換言すれば、位育参賛を本質とする人の道を知らない。誠は天の道である。これを誠にするのは人の道である。
(「東洋倫理概論」)
”消極的無為の生活に陥る第二種的の宿命論”ってのは、まーざっくりいうと「決定論的」ってことかな。我々の人生のシナリオは既に決まっていて、私たちがどうもがいても「そう成る」んだから、どうしようもないさ~、みたいな(^^;
造化=天地万物を創造し、化育すること(+それを成すモノ=造物主)
自分もまた「造化の主」なのだ、という意識・意志をもって
天・神・カム意の造化に位育参賛し、”自らの人生”と”自分が在る世界”を創造してゆけってことかな。
「誠は天道である」と証明するべく、誠に生きる・誠の実践をして往くのが人の道なのかぁ。
誠=嘘偽りのないこと、真心、真実の心
こうして、安岡先生が語る言葉の意味を1つ1つ再確認しながら
日本語の持つ奥深い示しの世界を漂っている私です。
(つづく)