「学びの道」がどのような道であるのかを示してくれている。
具体的にどのような状景の道で、どんな道のり(道順)かを示してくれている!
私が尊敬する賢人・哲人「安岡正篤」氏ってこんな人
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「学びの道」がどんなものかよくわかっていない状態で進みだし、手探りで ひとり僅かな光を手に足元を照らして進んでいた私に「学びの道の地図」を与えてくれた安岡先生の言葉をどうぞ。
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大学の道は明徳を明らかにするに在り。民を新しくするに在り。至善に止まるに在り。止まるを知りてしかる後に定まるあり。定まりてしかる後 能く静かなり。静かにしてしかる後 能く安んず。安んじてしかる後 能く慮る。慮りてしかる後 能く得る。
(「大学帖」)
そう、これは安岡先生が「大学」の中から 共鳴した部分を書きぬき解釈を加え綴った書「大学帖」からの言葉っす。
故に「大学の道は…」となっておりますが、私はこれを「学びの道」として勝手に受け取りました。「学び」「学びの道」全体を照らす言葉だと思ったからです。
学びの本質は「知識・智恵を得る」「知識・智恵の活用」にあるわけではなく、それらは表層部分であって根本にあるのは今回紹介した、この言葉に表されているのではないでしょうか?
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【示された学びの道(道のり)】
学びによって、
→①明徳を明らかにする+民を新たにする(明徳の民にする)
→②善に至り、至善に止まることを知る(可能にする)
→③「(至善に)止まる」を知ったことで、身心が定まる(柱+神殿が立つ)
→④「身心が定まる」ことにより、静けさを得る(他に振り回されず鎮座する自己)
→⑤「静けさ」の中に鎮座することで、安を得る(身心の平安・安定、絶対の自己空間・世界を得る)
→⑥「安んじて」然る後、能く慮る(自他を含む全体の状況に思いを巡らし、気遣うことができる)
→⑦「慮りて」然る後、能く得る
「学びの道」の最後に待つ「慮りて、然る後 能く得る」とは、「何を」得ることができるようになると説いているのでしょうか?
私なりに考えてみました。
①~⑦まで道を進み、慮り然る後に得ることができるものとは、
- 命(天命・使命)
- 命の実現、命に生きる人生
- 造化の道、造化の意識、造化の力
これらのことではないかと思ったのです。んで、この3つを得た先にあるモノこそ安岡先生が本当に伝えたい「能く得る」モノだろうな、と。
それは、”誠と愛(慈愛)に満ちた世界で「創造を楽しむ」私”であり、そこにある「悦び」なんじゃないかと、私は思ったわけです。
よくわかりませんが、人は本能的に「幸せになりたい、幸せでありたい」って気持ちを持っていますよね。「幸せの実現」が根源的な願望・欲望とでもいうのでしょうか。
その本能が求める「幸せ」「幸せな私」って、ここに到達した時に在るんじゃないかと。
その時、すべての「求める」ことから解放され、真の自由な喜びを満喫するかもしれませんな。
(つづく)