ここから、話はグッと「自分事」になっていくと思います。
「あなたはどう考えるか」が問われ続ける展開へ入っていくよ~
無知な私に量子論の世界を優しく案内してくれる良書
↓
では、量子論にめっちゃ貢献したシュレーディンガーが、実は、その後の「量子論の発展」に大いなる不満を持っていたって話にいくよ~
↓
シュレーディンガー方程式を導き出し、
量子力学(波動力学)を打ち立てたシュレーディンガー君はシュレーディンガー方程式が示す「物質波(電子の波など)」をこう考えていました。
↓
従来の物理学では、「どの方程式に現れる量もすべて実際に存在し、観測できるものだ」と考えられていた為です。
故にこの式が示す「Ψ」が示す複素数の値も「何か実在の量を表すに違いない」と考えたわけですね。なんかその気持ちわかるわぁ、方程式で示せたんだから「それは在る」と思うのが自然やろ~
↓
ところが!コペンハーゲン解釈では、
という姿勢だったため、シュレーディンガーは納得できなかったのです。
その後のシュレーディンガー君がどうなったかというと、
電磁気力と重力を統一的に表す研究を行い+生物学にも関心を持ち、物理学の主流となりつつあった「量子論」とは距離を置いて己の研究の道をまっとうしたそうです。
改めて『観測できるものが実在である、観測できないものは実在しない』という考え・姿勢に触れてみると…「そんなことないやろー、乱暴すぎや~」という思いが湧いてきた。そう、私もシュレーディンガー君のように「物質波(電子の波など)=複素数の波」は実在すると思うているひとりっす。
「観測できるものだけ」を実在にしてしまったら、「観測技術」に存在の有無がゆらぎ続けてしまう。我々の観測技術って…今でも「この宇宙の95%は謎のまま」っていわれているのに、何も見えてないじゃん!!
そもそも「実在」って意味を考えてみたんですよ。
「実際に存在する」って意味で使われてますよね。
「実体が存在する」という認識もあるかな。
でもまー「存在する」に重きが置かれているじゃないっすか?
最近、古語辞典を引くことが多くなって、その中で「存在」という言葉が示す意味の本質に気付いたんですよ。
↓
人が(私が)”存じる(知る、承知する、思う、理解する)”故に「それは在る」
「存在の本質」ってこれだと思うんですよ。
存在って人の認識にかかってる、人による観測ではなく「認識」にかかってるんですよ。
まー観測があって、現象が見えて、顕現があって、やっと「存じる・存じ上げる」に成る人もいるからね。ってか一般的にはこっちの順を追うから「観測できるものが実在」って考えになるのか??
「実在」で意味を調べると、”意識から独立に客観的に存在するもの”とか出てくるのですが、存在自体が人の意識・認識に有無を委ねているから…どうなんでしょう。切り離せるものなのか? 客観的な事実の存在を量子論が否定していたような…
思考がグルグルしちゃいますが、今の私にはその姿が観測できずとも真理の法則に沿う方程式は示すならば「それは在る」と私は思うのです。
だから、私はシュレーディンガーを応援する!こうして何だか物理の偉人たちがとても身近に感じられてきているのです。
三次元から四次元のものが見えない(観測できない)だけってこともあるしね。
(つづく)