「大人(だいじん)」=周囲に善い影響を与える徳の高い人
「大人(おとな)」=成人して一人前になった人、充分に成長した人
本来は大人=大人でなければならないはず…
私が尊敬する賢人・哲人「安岡正篤」氏ってこんな人
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人は何を求め生きる様に設計されている生命なのか?
この点を考えながら、安岡先生の言葉に耳を傾けてみてください。
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万物の霊長である人の子は、父母の膝下にだんだん成長するにしたがって、精神生活が芽生えてくる。乳でもない、菓子でもない、慈愛の言葉でもない、ある不思議なもの、何ともいえぬ神秘な厳粛なあるものを要求してくる。
あたかも暁の光が夜の闇と沈黙とを破るように、われわれの自覚に世界が現れ、人生が発見され、生活ー道ということが考えられる。
換言すれば生きる上に何らかの意味と力とを要求するようになる。
(『東洋倫理概論』)
個々人に感じ・思う心がある。
何を感じ、何を思うかは個人の自由である。
しかし、赤ちゃんが母の乳を求めたり、子供が親の愛を求めるように、「人間」という生命には「何を求め生きるか」という点についても本能というか、創造時における初期設定が成されていると思うのです。
では、「大人」になり精神生活が芽生えた時から我々「人」は何を求めるように設定されているんでしょうか?
”あなたは今何を求め生きていますか?”
お金?権力?幸せ?愛情?快楽?
自分なりに一番求めているのもは何なのかをじっくり考えてみるイイ好機かもしれません。
安岡先生は「ある不思議なもの、なんともいえぬ神秘な厳粛あるもの」を求めるようになるといっている。続く言葉はどこかトートの教え(エネラルド碑版の言葉)に似ている。
”あたかも暁の光が夜の闇と沈黙とを破るように、我々の自覚に世界が現れ”
トートがいう「夜の暗黒を破る光」と同じことではなかろうか。
「真理への道」「真理」を求めるようになるということではなかろうか。
安岡先生のこの言葉をよく見て読んでみてほしい。
「我々に自覚の世界が現れ」ではなく「我々の自覚に世界が現れ」なのだ。
我々の自覚(内面世界・内側の生命核)に「世界が現れる」といっている。
大人(だいじん・おとな)になるということは、世界を内包する自己の覚醒なのだろう。今まで「私が存在する世界」と思っていたところから、その世界の上の次元の私になっていくことを求めるようになる=目指すようになる、ということなのか!?
この世界の真理・仕組み・構造の真実を知ることで
その世界をそっくりそのままに自分の内側に再現できるようになるはずだから、
今度は自分の中にウツシた「この世界」を己の意志・意図で動かせるということか?
全然うまく伝えられませんが、私は安岡先生のこの言葉により
グッと視野が明るくなった気がしております。
(つづく)