あー私が小学生時代に受けてた「道徳」の授業は、たぶん表面的で本質からずれてたみたいだなぁ…当時は「勧善懲悪の学び」かと思ってた。
私が尊敬する「安岡正篤氏」ってこんな人
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「道徳」が実は学びの芯柱だったのです。
ここを中心に国語・数学・理科・社会を学んでいくべきであったかぁ。
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宇宙の本体は、絶えざる創造変化活動であり、進行である。
その宇宙生命より人間が得たるものを「徳」という。この「徳」の発生する根源が「道」である。「道」とはこれなくして宇宙も人生も存在し得ない本質的なものであり、これが人間に発して「徳」となる。その本質は「常に自己を新しくする」ことである。(『人物を創る』)
「道」とは何か?
”これなくしては宇宙も人生も存在し得ない本質的なもの”だと⁉
最近読んだ本の中に「一なるモノ・神・道」は言い方を変えただけで、同じモノを示しているって書いてあったなぁ。
たぶん「道教」の「道(tao)」の意がヒントになる。
- 道徳的な規範(生き方・在り方)
- 宇宙自然の普遍的法則や根源的実在
- 美や真実の根源
「道」とは複数の意を含んだ言葉のようですが、たぶん上の安岡先生の言葉にある「道」は”宇宙事前の普遍的法則や根源的実在”のことだと思われます。
この宇宙を生み・動かしている「法則」があり、
それは「根源的実在(一なるモノ)」からきており、
結局それって「根源的存在の意志の反映」ですよね?
だからカム意が人間に発して「徳」となるという意味かな。
”人間に発して=カム意と人が繋がって(融合・合一)”→「徳」かぁ。
では「徳」とは何ぞや?
一般的には「優れた人格」・「立派な行いや品性」という意で認識されているかな。
でも それだとどうもしっくりこないので、徳の意を探っていき見つけた!
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「徳」と云う字は、大きな目(司祭王の目)の呪力によって地を抑えることを表しており そこから『統治者としての資質や自然万物を育成する力』を表すものとなったんですって、これじゃね!?
「徳」って「道」を通して人に湧く(人の内)に湧く、根源の力のウツシじゃないか~
そう思うと安岡先生の言葉が理解できる。
つまり、徳を得ると「自分が在る世界の統治者になる」ことができるってことよね。
ポイントは「自分が在る世界=自分が認識している世界」ってところっす。
(つづく)