なんとなく「有名に成る」ことへの憧れってある。
華やかで、影響力も大きそうなポジションだしね。
でも、安岡先生は「有名」であることの実質・本質を見抜いていらしたようだ…
私が尊敬する日本の偉大な哲人・安岡正篤先生ってこんなひと
↓
この2冊は常に身近に置き、何度も読むようにしております(最近)
今日は、私がドドーーン!と雷に打たれたような衝撃を受けた安岡先生の言葉っす。
君たちは決して有名になろうとしてはいけない。有名は多く無力になる。
そうではなく、無名にして有力な人になることを考えねばならない。「忙しい、忙しい」というのは有名人の口癖です。「忙」という字は立心偏に亡ぶと書いてある。”心が亡くなる”ということで、忙しいと本当に心が亡くなる。迂闊になったり、粗忽になったりする。
(『運命を拓く』)
あーなるほどな、と思った。
「有名になる=影響力を持つ=富と力を得る」
こんなイメージがある。
このイメージは私以外にも多くの人がもっているんじゃなかろうか?
故に、大手メディアやSNSを活用して「有名になる」ことが今鋭利な形で暴走してるし、昔から テレビや広告業界による特定の人物を意図的に有名人にする「有名人を創る」活動は行われてきたみたいだしね。
こうして、改めて「有名になる」「有名人」ってのを見つめてみると…
「有名」って幻想や幻覚に近いモノなんですな。
もちろん、偉大な功績・実績を出した故に話題になって広く世に知られる「有名有実」な人もいます。
そういった方々がその功績や実績と共に歴史に名を残していくでしょう。
だから、故意に創られた「有名」とは違う。
私は安岡先生の「有名無力・無力有名」という言葉を最初に聴いた時
「有名無力=有名無実」と解釈してしまいました(^^;
有名無実→名ばかりで実質は伴っていない、知名度に対して実力や能力が伴っていない
まーこれも有名無力の中の一部には含んでいるかもしれないが
安岡先生がいう「有名無力」ってのは、有名になると結局は自分の時間を失い・自分と深く向き合ったり、成すべきことに集中する時間が無くなるから「無力」になるってことらしい。その「無力」は「心を亡くす」ことに繋がるんやね。
メディアを使って意図的に創りだされる「有名人」というのは
常に大勢の記憶に残るよう多くの露出(出演)が必要だし
「知名度が高い→好感度が大事」とかになってくると
有名でありながらも「大衆ありきの存在」で結局は「大衆の支配下」におさまり、その実質は「無力」なのだという意味もあるんじゃないかなぁ…と私は考えちまうぜ~
本物の実績・実力ある「有名」さんたちは自分のやるべきとこに集中して突っ走って「群れ」から飛び抜けた存在になったってことなんだろう。
安岡先生は「有名」よりも「無名」でいいし、そこを目指せというておる。
ただの「無名」ではなく「無名有力」「無名有実」であれ、と。
何気に難易度は高いぜ~
「有名になる」とか「有名人って立場」にどこか憧れの気持ちがあったが、
有名とは不自由なことなのかもと気が付き 憧れも消えていった。
この有名への憧れの気持ちもトートがいう「暗黒の束縛」の1つだったのだろうか。。
有言実行→生前の安岡正篤先生は決してマスコミに出ることはしなかったそうです。
有名無力・無名有力を心に刻み実践していたのですね。
(つづく)