今日は「世間的に、一般的にこうあるべき・これが正しい」と思って
行動している人にはブッ刺さる話です。
私が尊敬する安岡正篤氏ってこんな人
↓
今日の言葉は「正しく在ろう、生きよう」とする人、
「自分は善人だ」と思っている人の心の深い部分にブッ刺さると思います。
そもそも「善人の血肉をすする悪人」には先生の言葉は響かないし理解できないだろうから、「善を望む」人の人生にしか先生の言葉は現れないとは思う。
↓
かく命(めい)を正しく解して、自ら省みて人を咎めず、棺を覆うてこと定まるーー否、それよりも天を相手として努力することを「知命」「立命」という。
命を知り、命を立つる人を「みこと」といって「命」という字を適用する。かくの如き人こそ尊い人であるから、みことをまた「尊」とも書く、日本人の祖先はみな命であり尊であった。
(『新編経世瑣言』)
『どう生きるか?』それが「道」だとして、正道はどこにあるのか?
トートは常に「光を見て、光を目指して進み続けよ」といっていた。
それが「光の道」だと。
『棺を覆いて(蓋いて)こと定まる』とは
「人の評価は死ぬまで定まらない」ということを示す言葉だそうです。
人の真の評価はその人が亡くなり、棺に蓋がされた後 はじめて定まる…何故かというと、生きている間は利害や感情が入り組んで正当・公正な判断が下せない、からだそうです。
「えっ!? 私が死んだ後に、私の真の評価を”誰が”下すの⁇」
(私の心の叫び)
「生きている人びと」が下すとして、
その「生きている人々」って利害や感情が入り組んだ中生きているわけでしょ?
正当・公正な判断とか無理じゃん。
しかも真実は「有名無力・無名有力」だと安岡先生は教えてくれたが
今の時代って「有名=影響力=社会(大衆)を動かす力を持つ」になってる気がします。ってことは言い方悪いけど「声の大きい有名無能な人が下す判断」が実はこの世界・この社会を広く覆ってしまうってことになってません?
まーそういった「有名に成りたい人(承認欲求強めのナルシスト=簡潔に:目立ちたがり)」を裏で操る悪意・欲に満ちた人達が誘導しているんでしょうけども。
他人が下す評価を気にすることなく、ただ天を相手に己の心が望む「誠」を尽くせつーことですよね。
(そうですよね、高岡先生!)
天意と己の本心を合わせ(たぶん本来は一緒だったもの)「命」に生きる時、そこには「他者の目(評価・監視)の恐怖」も無く 「そうでなければならない」という息苦しさも無く、喜びに満ちた状態で「己の誠を尽くせている」状態なんでしょう。
知命・立命したら、後は人目を気にせず、だた天を相手に「命の実行」あるのみ、
だそうです。
自分が天と己の「誠」に対し偽りなく生きる時、「私の在る処はすべて真実の場となり、如何なる外的条件にも左右されなくなる」んだそうです。
(‘~‘)確かに、まぎれもなく曇りなく「真実の中に生きる」やね。
(つづく)