孔子の自己分析…めっちゃ面白いなぁ。
日本の偉大な哲人・安岡正篤氏について「どんな人や」と興味を持った方は
まずはこちらの2冊を読んでみてね~
では、今日は安岡氏が語った「孔子の自己分析語り至る場面」のお話から。
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ある日、葉公は子路に訊ねた。
『孔子という人は、いったいどういう人ですか?』と。
この時、子路は答えず、何も言わなかった(何も答えられなかった)。
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『お前はどうして言わなかったのか。その人となりは…』
ここで、孔子が語った「孔子とは一体どんな人物か?」という自己分析が非常に興味深いのです。『その人となりは、』続きはこんな感じ。
- 憤を発しては食も忘れ、
- 道を楽しんでは憂いも忘れ、
- やがて老いのやってくることにもきづかない
そういう人、それが孔子だと自分でいっているのです。
憤を発する→「発憤」
- 心を奮い立たせること、何かに刺激され精神を奮い起こすこと
- 大いに力を発揮して物事に取り組もうとする前に精神を奮い起こすこと
なるほど、命に目覚め無我夢中になって取り組んで
「時の束縛」も「死の恐怖」も孔子を捕まえることができないってのがよく伝わってくるなぁ。
安岡氏が「論語の活学」で触れたこの話について
安岡正篤 人間学 (講談社+α文庫)の中で著者の神渡氏は
こんな風に解説してくれている。
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物事に感激して、ただひたすらに打ち込む。
結局、人生というものはそういうものではないだろうか。
一度しかない人生。時間を浪費しているわけにはいなかい。
人生とは「そういうもの」だと。
私なりに解釈を加えて「人生とは」をまとめてみる。
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”今に集中、無我夢中で取り組む(そうなれるモノを見つける)”
これに尽きる、んだろう。
我を忘れるほど、他のことは何一つ考えられない・感じないほど集中できる、
その今・今の連続「中今に生きる」ことが人生の醍醐味なのだろう。
雑念ばかりの私には耳が痛い話だぜ~
妄想も邪念も多いしな(^^;
(つづく)