何を学ぶのか、その学びの方向性がめっちゃ大事で
この世界の真理・法則を知り、知命・立命に至る為に人は学ぶ必要があるわけですが、
この点を踏まえての「学ぶ人」と「学ばざる人」に生じる大きな差(差異)について
安岡先生はこんな風に語っております。
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「われわれの命をよく運命たらしめるか、宿命に堕させしむるかということは、その人の学問修養しだいである。これが命を知る<知命>、命を立てる<立命>の大切なゆえんである。人間は学問修養しないと、宿命論的存在、つまり動物的、機械的存在になってしまう。よく学問を修養すると、自分で自分の運命を創ってゆくことができる」
学問=人間学(智恵・徳慧の学問)のことですが
トートがいう「光の道を行く」と同じ示しだと思われます。
ここまではっきりと、「学ぶ者」と「学ばざる者」に生れる差異を示した言葉あるでしょうか。
人間学=この世の叡智・徳慧の学問を修養しないと、人は
- 宿命論的存在(ただただ時代・社会・環境・周囲の流れに流されゆく存在)
- 動物的存在(野性的・原始的な非創造的な存在)
- 機械的存在(社会の円滑な運営の為の部品のような存在、人としての思考性はなくただただ与えられたプログラム通りに動く存在)
になってしまうというのです。
学ぶと自由になれるってのは何度も示されてきたんでわかってたんですが
「学ばないとどうなるか」をこうして示された方が危機感と恐怖感湧いてきませんか?
こうして具体的な示しをされると「学ばざる人」が増えるということは、
「同じような動物的・機械的な存在が量産されていく」っていう更なる恐怖が見えてきませんか?
そういった人達は「操作・支配しやすい」から
ある意図を以って強い言葉を発する人に動かされやすいって感じしますよね。
この恐怖が今の日本社会で現実のものとなっているような…
くわばら、くわばら(⇐子供の頃、親がおしえてくれた落雷防止の呪文)
(つづく)