植芝盛平氏が説く「合気道」は、私がイメージしていたような「護身術」でもなければ「戦闘のための体術」でもないってことがはっきりと見えてきました。
古神道が説く「神ながら」の道に近いものがありますね。
カタカムナの解読、日本語の音のヒビキと創りの神秘、古事記の解読に触れた後 もしくはこれらに触れながら「肉体のカム構造」を探る為に「合気道の祖・植芝盛平」氏が説く「むすび合気・武産合気」の世界を覗いてみることをオススメしている、私です。
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一霊四魂・三元・八力の「むすび」の根幹にある「気体のむすび」を見てきまして~その本質は「一元とのむすび」であり、古神道に通じるものであるってことが見えてきました。
ここで植芝盛平が「合気道」を説き、人々に自分が感得したモノを伝えゆくその真意(思い)に触れておきたいと思います~
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彼の思いはこのように語られております。
「たとえ3日でも5日でも合気を習って、自分の健康に、また『みそぎ』として、自分の使命の上に参考として、宇宙の営みを神習うて、自己の完成をしてもらいたい」
なんか、安岡正篤先生の思い(志)と重なるんですけど(;;)感涙
植芝盛平氏は「気体のむすび」の端緒でいいので体感・心得してほしいと願ってる。
そうすることで安岡先生が説くように「命に目覚める=知命・立命」に至り 自己を大きくしてほしいというではないだろうか。
植芝盛平先生もまた、人間は神性(神霊力)を秘めており「一元と合一」し、その力・能力を解放できると確信していたのではないだろうか。
そして、その神性は「命」に目覚めた時に引き出されることも知っていたのではなかろうか。
植芝先生が説く「合気道」は、相手ごと己にとり込み 禊(浄化)するものなのです。
相手の敵意を浄化する感じでしょうか。とにかく、相手を力で打ち負かす格闘・戦闘術ではないのです。
合気道の視点は「相手と己」ではなく「天と己」に近いっす。
(つづく)