この映画は、小学生の内に、できれば3.4年生の内に見た方がいい。
「間違い」を起こさぬために、人生に「後悔」を背負い続けぬためにも。
現実世界も残酷だけど、「学校」という独特で非常に狭い空間場では「残酷さ」が鋭利になる。「学校」という場には 正義の番人はおらず、「声の大きな人(人として間違っていても発言力・行動力があって偉そうな人)」や「多数の力」が圧倒的な支配力をもつ。
だからこそ、子どもの内に 「いじめる側」「いじめられる側」…「この残酷な世界を双方向から描いた映画」を見た方がいい。
この映画は小学生の頃に転校してきた「聾唖の女の子」に対して、はじめは一人の男子が彼女の口真似をしてからかい笑うことから始まった「いじめ」…その波がクラス中に広がっていき彼女は学校に来なくなり転校してしまう…ところからはじまり、彼女の「いじめ」が問題になるとその「はじまりの一人の男子」がいじめの主犯から単独犯という事にされ、今度はクラス中から「いじめ」の対象にされるのだ。
そして、物語はこの「聾唖の女子」と「いじめた少年」が再会することから本編が動き出す。二人とも「いじめ」られたことで、ずっと「死」を意識しながら何とか生きている姿が描かれている。
私が個人的に凄く印象にのこったし、心ぶたれた思いを抱いたのは「彼女と彼をとりまくクラスメイトたち(友達?)」の姿なのだ。
- 高校から親しくなった唯一の友
- かつて彼女をいじめていたボス的女子
- そのボスの手下的女子はボスに同調しながらも、「自分はいじめに加わっていない」「私はいじめはやめるようにいってた」と何故かいつも被害者ポジションで自己擁護ばかり
- 彼女と親しくなったが、いじめの波が広がる中で逃げた女友だち
- 詳しい事情も知らないのに過去のいじめの件で主人公を攻めてくる高校のクラスメイト
どんな人も明確な「いじめられる側」「いじめる側」にならぬとも、この様ないじめの傍観者や外野としての無責任な態度でやり過ごした経験にどこか思い当たるものあるんじゃないだろうか。。と思ったのだ。
正直私はこの「彼と彼女を囲む友達(というには怪しい人)たち」の姿に、スッキリしない思いがあったし、映画を見終えてもその思いが残っていた。
特に「ボス女子の子分」的ポジションで同調し、あの子をあざ笑ったり 仲間外れにしてたのに「私はいじめてない」を主張し続け、「いじめてったのは○○君」と主人公の名を大声で広める…「あの女」は映画の最後を見終えても「信用できない」という思いしかなかった。
この彼女へのモヤモヤは色濃いが、他の人達にも「怪しい」思いはあった。
あの二人以外は「あの時のままで何も変わっていない」としか思えなかった。
このモヤモヤに苛まれながら、このモヤモヤが私の中に湧いてくるのは かつての私がこいつらと同罪・同類だからではないか…と思えてきたのです。
「あの時」を乗り越えた主人公2人と違って、私もまた「友達(?)の彼ら側」なのだと思うに到ったのです。
だから、心から思う。
小学生の内に、この映画で描かれている彼と彼女の出会いの「あの時」と同じ世代・年齢の子達が「残酷な過ち」を起こさぬようにこの映画を見るべきだな、と。
そうでないと「死の影を纏った十字架」を背負い続けることになるから。
「死」は遠いようで、実はすぐ側にあるモノだから。
「いじめる」「からかう」「笑いものにする」「無視する」の選択をする時、それは「相手の死」や「自分の死」や「死に値する耐えがたき苦痛」をもたらす結果となって 己にかえってくる…ってことを教えてくれる映画です。
そもそも、みんな違う、みんな違う個々の事情を抱えて限られた世界に生きている。「多様性、その相互理解」を説くならば まずはこの映画から学んだ方がいい。