荀子が説く「窮して困らず、憂して意衰えず、禍福終始知りて惑わざる」まで
学びの道・人としての道を進めたなら、その先へ更に進んでいこう。
安岡正篤氏の言葉に学ぶ前に、
新渡戸稲造氏の「武士道」を読んでおくことをおすすめします。
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武士道を読んで「仁義誠」の心の芯柱が立ったところで
安岡先生が説く「人間学」の道へ参りましょう。
”この学問が盛んにならなければ、民族も国家も栄えない”
と安岡先生が云うように「人物を創る」学問こそ社会の基礎だと私も思う。
人間とは、「どう生きるか」の決意によって
どこまでも卑しい人型の動物的な存在にもなれるし
己を磨き 高貴な心で神意と共鳴した神人のような存在にもなれる。
あなたはどう生きたいですか?
私は、もう外側世界に振り回されたりせず ドシッとぶれない「己」で生きていきたいと思っております。そんな中、武士道の精神やトートの言葉、古神道の世界に触れ「この世には絶対的な真理があるな…」と思い、ならば人間の生き方=「どう生きるか?」に於いても迷うことなく進める正しき道=「正道」があるな、と確信したっす。
そんな「どう生きるか?」の正道をブシッと簡潔にわかりやすい言葉で示してくれているのが安岡先生だったのです。今のところ…この人唯一人や。
では、「なぜ学ぶのか?」「学びの本質」を説く人間学の第二条件を見てゆきましょう。
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人間学の第二条件は「自ら靖んじ、自ら献ずる」ことだという。
これは「書経」に出てくる言葉で、内面的には良心の安らかさを得、それを外に発して、自己を捧げて、世のため、人のために尽くすことを意味する。
第一条件で「状況・環境に惑わされることなく、常に精神は安定し、真の主体性を立つ」という「私」が真の自由を手にするところ、まで示されましたが今回はその先っす。『そこからどこに向かうか』が示されてますよね。
『自ら靖んじ、自ら献ずる』
”内面的には良心の安らかさを得”というのは
人としての正道を進んでいれば「良心に何ら恥じる事なく、一点の曇りも無き状態」で
心は澄み渡たり、良心の安らかさを得て心に葛藤無しということでしょう。
そういう精神・心の状態を得て、はじめて充実した内側から湧く気・ネネルギーを
外側に向け放つことができるわけですな。
その時は既に「私の内側」が充実しているため、自然と今後は「外側の充実=他者や社会全体が安らかな心の安定・充実が得られるように」と動けるのでしょう。
私はまず「自ら靖んじ」を成しとげねば!
そこで得た経験がきっと、外に向け「自ら献ずる」とき実体験として役立つのでしょう。だから、まずは「真の自由と主体性を持つ」ことに専念しよっと。