今日は安岡氏が取り上げた「明末の儒者・呂新吾」の言葉に学ぶ編っす。
私が尊敬する賢人・哲人「安岡正篤」氏ってこんな人
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安岡氏は『活学』の中で「人間の資質」に関して、呂新吾の言葉をあげて説明してくれている。
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”深沈厚重は是れ第一等の資質、磊落豪雄は是れ第二等の資質、聡明才弁は是れ第三等の資質”
人間の資質の「等級」が示されている。
- 第一等級の資質=深沈厚重(どっしりと落ち着いて、深みのある人物)
- 第二等級の資質=磊落豪雄(積極的で細事にこだわらない人物)
- 第三等級の資質=聡明才弁(頭がきれて、弁の立つ人物)
「等級」とは”上下・優劣の順位を表す段階”であり、”天体の光度を表す階級”
つまり、一番上位で尊く光り輝くのは「深沈厚重な人物」なのです。
この3つはそれぞれに個で存在しているわけではなく、どうやら上の等級は下の等級の資質も内包してるということらしいっす。
安岡先生は、”大抵はこの順番が逆に考えられている”と嘆いていらっしゃる。
聡明才弁な人は賢く弁が立つので、大衆からすると「わかり易く」尊敬しやすい存在でその「弁の才能」により大衆を容易に動かせるからね。
ただ注意しなくてはいけないのは「徳のない人でも」聡明才弁な人物に成り得るため、倫理観のないリーダーが大衆を動かすという危険がでてくる。
”ずる賢い+詭弁家”は大きな影響力得て、社会を歪にし修羅の世界に導いてはいないだろうか?(特にネット時代になってから)
安岡氏も「聡明才弁な人は、とにかく鋭角的になり過ぎる」という懸念を示している。だから徳を養い、聡明才弁から→磊落豪雄→深沈厚重な人物へと修養してゆかねばならないと説いている。
深沈厚重な人物というのは自然と頼られるリーダーとなり、窮地に陥っても回りをよく見て、仲間の意見に耳を傾け、関わる皆が行動を起こせるように静かに動く(動いている)のだという。(ジーンとくるぜ~)
こういった人の下で修養・修業したいのもである。
最後に一つ、呂新吾の言葉で、私の心にめっちゃ響いたものを紹介したい(;;)
『身を修むるには、短を護らざるを以って第一の長進となす。人能く短を護るらざれば即ち長進すること日に至る』
(意訳:自己を磨くためには、短所を隠さないこと、これが第一の近道である。短所を隠さなければ、目に見えて効果・成長が顕れる)
”短所に向き合い”「それが今の私だ」と認め、そこから修養を重ねていくことが大事だと。短所を他人に知られたくない・見られたくないと思うし、なんならまず自分で認めたくない、だから目をそらして隠してしまうものですよね。でも修養のはじまりは「短所を隠さないこと」からのようです。
修養を重ねた賢人の経験から出た言葉、響くね。
(つづく)