「愚・素・樸・拙」これを大事に生きるとは?
私が尊敬する賢人・偉人・哲人「安岡正篤」氏ってこんな方です~
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では、本日は東洋思想が非常に尊重する「人間内容=人生観」とやらについて
安岡先生の御言葉から考えていきましょう。
東洋では、愚だとか、素だとか、樸だとか、拙だとか、こういう人間内容を非常に尊重します。近代的末梢化、つまり人間として枝葉末節に走ることを厭うからです。
人間はより多くの生命、すなわち実在の根本を守ろうとします。枝となり、花となり、実となり、葉となるような末梢化を避けて、より多くの幹となり根となって、常に全体性、永遠性、無限の創造力を尊重しそれを体現しようとします。
愚、素、樸、拙などは、こういう思想信念、したがって見識、風格を表す言葉なのです。
「愚・素・樸・拙」という言葉がどんな人間内容を表しているか?
私ははっきりいうとあまり「いいイメージ」は浮かびませんでした(--;)
- 愚(ぐ)⇒愚か、愚者
- 素(す)⇒そのまま、素の状態
- 樸(ぼく)⇒朴訥、素朴
- 拙(せつ)⇒稚拙、未熟、つたない
どれも「学び」「修養」の道を往く人とイメージが重ならない…しかし、安岡先生はこれらを「尊重すべき人間内容だ」というのです。
私が最初にイメージした「愚・素・樸・拙」はどれも「磨かれていない・未熟な・素のまま」な状態って印象しかなく、特に「愚」なんて「愚かでいいのか!?」と思ったよ。
しかし、その後に続く先生の言葉を聴いて「はっ」としたのです。
”(東洋思想では)近代的末梢化、つまり人間として枝葉末節に走ることを厭うからです”
うわっ!
これは…確かに「その場」「その中」つまり置かれた環境場の中で、よりよい栄養(栄華・富・力)を得ようと枝葉を伸ばし、群れの中で優位に立つために「綺麗な花」となり「実をつける」ことばかりに気をとられ、他人に競争意識や優越感・劣等感をもち相対的なことでしか自分を測れなくなっている人がほとんどだよなぁ…。
「その場=自分の置かれた環境」を創造しようという人は少ない。
でも東洋では、そもそもそういった人間になることを厭うといのです。
グサッ、とくるね。
私はこの思想・信念がガッポリと抜けておりました。
⇒『人間はより多くの生命、すなわち実在の根本を守ろうとする』そういう存在だと。
- 自分が大きく枝を伸ばし、大きな葉と成って豊かに恵みを得て
- 綺麗な花となり、他の生物を魅了し、崇められ
- 芳醇な実をつけ、賞賛され、特別な存在になる
そんな「栄華」に憧れちゃうよね、心の中にこんな欲うずいちゃってる。
できるなら、そう在りたい的な。
”本来、人間は末梢化を避け、より多く幹となり根となり
常に「全体性」「永遠性」「無限の創造性」を尊重し体現しようとする”
という先生の御言葉に、こんなにもみている世界が違ったのか…と。
恥ずかしいばかりっす、この時私は私がイメージしていた「愚・素・樸・拙」のまま、
その通りの愚者だと自覚できたわけです。(心も頭も痛い…)
その後、この4つの意味を調べてやっと理解できたのですが
「驕らず、謙虚に生きる為の大事な人生観」が示された言葉でした。
- 愚=愚直に生きる、自分に関する語の上につけて謙譲の意を示す
- 素=素直、無色、素平
- 樸=ありのまま、切り出したままの荒木
- 拙=つたない、下手、まずい
謙虚でありながら、向上することをやめないそんな姿勢が大事だということでしょう。
愚・素・樸・拙である私を認め受け入れ、外・他に接する時
全てが「学び」と思え、接するすべてに素直に感謝できるのかもしれません。
この時、今まで見えなかった「全体性」や「永遠性」が見えてくるのでしょう。
その先に「無限の創造性」も。
これが地に足着いた人物ってやつかぁ。
先生の言葉に触れていると、今まで自分が視線(意識)を向けていた方向が如何に間違っていたかってのを痛感します。
(つづく)