産業的な『芸術』ではなく、人が行なう芸術的な行為(表現)の方の話です。
古代の智~古代日本の智の探求にはまり、今は「身体にもカムアマ構造があって、カムの力を発揮する術が在るはず」と確信し覚醒スイッチ探しをしとります。
そんな私に道を示してくれたのは「合気道の祖:植芝盛平」先先っす。
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植芝盛平氏が「合気の動き」として弟子たちに示した「神楽舞」は「言霊の発声を伴う舞い」でした。でもそれは盛平の「神楽舞」が言霊の働きを象徴的に示したものだったから当然ですわな。
神智学者であるシュタイナーの「オイリュトミー」も言語のヒビキ(音)を動きで示した舞いでしたよね。
ふたりとも「言語に宿る魂のヒビキ」を感じ取っていたわけです。
シュタイナーは『言語は人間の魂の普遍的な表現手段。太古の諸言語の中に極めて芸術的な要素が行き渡っている』という様なことを述べております。
更にシュタイナーは人が身体を使い⇒声を発し語り・歌い・舞い・描くという表現のことを「芸術的な行為」と呼び、
”芸術的な行為=体的・魂的・霊的な創造行為である”としている。
つまり我々は「魂の表現=芸術的な行為」を通して「創造」しているのです。
造化に参加しているのです。
ただ、今の我々が「芸術」と聞いて思いうかべるイメージや概念のような”教え込まれた「芸術」”ではなく、シュタイナーがいう「芸術活動」というのはもっと人の深い部分(内奥)から自然発生する身体を使った表現のようです。
シュナイターは「芸術的な行為は太古の諸言語の中にある」とも言っております。
盛平が言霊のヒビキ(根源のヒビキ)75音に感じていたのと同じものをシュナイターも感じ取っていたのではないでしょうか。
太古の言語は言霊の働きを色濃く反映している。
根源的な言語の響きを感得した時、
それぞれの言語の発する音が、
ひとつのイメージとして捉えられるのである。
カタカムナや神代文字・文献などが示す世界にいっそう興味湧きますな。
文字は神代~現代までに色々変化してますが、「日本語のヒビキ」は古代から現代までずっと変わらずに受け継がれていると思うのです。
今も古代日本語のヒビキは生きていると思っております。
ただ、日本語のヒビキ=言霊のヒビキ=根源の造化のヒビキと認識しているか否かで「言葉」の力はだいぶかわってくるはず。言語・言葉は「人間の魂の表現」ですからね。魂から響いてきていないと言霊の力が発せられないはず。
もっというと「言霊」が何たるか、「言霊の力」が何なのか、を知らない者には使えないんじゃないか、と。知らず知らずに言霊の作用を被っている可能性は高いかも。
今も生き受け継がれている「日本語のヒビキ+言霊の力」を得るには、古代日本語(神代・上代~大和言葉)をもっと深く知る必要がありそうですな。
私は「あわ歌」「ひふみ祝詞」「君が代」とかを何度も歌ってみたりしております。
この3つは 心の内奥を揺らす作用が強い気がするんですよね。
(つづく)