ここで盛平氏と老子が感じ得た「天地の呼吸・根源の呼吸」にある、「大きな違い」部分をしっかりと見ておこう。
私が、真理に至る道の師のひとりとしている「合気道の祖・植芝盛平」氏ってこんな人
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盛平も老子も「天地の呼吸」「宇宙の根源的な呼吸」を感得していたようですが、そのことから悟った内容には「気になる相違点」もあるのです。
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老子が『天地の間は 其猶 タクヤク(ふいご)の如きか…』と語る直前の部分には『天地は仁あらず。万物を以って芻狗(すうく=祭事で用いる藁で編んだ犬)となす。聖人は仁あらず。百姓を以って芻狗となす』とあるのです。
- 天地に仁(慈愛の心・情)は無い、天地にある万物は藁で作った犬のようなもの
- 聖人に仁(慈愛の心・情)は無い、聖人にとって民は藁で作った犬のようなもの
といっているのです。
老子にとって「天と地」が(造化機関として)完璧なのは、どうやら「無名」から始まり「無心」であるから 何も判断しない・何にも乱されない故に 常に完全体として分離することがないということなのかもしれない。
「美を知れば相対として醜が発生し、善を知れば相対として悪が生まれる」みたいなことも老子は説いているので。
老子にとって「天と地は造化機関(の完全体)」なんだろう。
では、根源の呼吸に「神の愛」を感じ得た盛平にとってはどうかというと
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根源の呼吸・宇宙の呼吸に「愛の引力」とその相対として発生した「武の斥力」を感じてましたよね。
盛平は更に、この根源の呼吸から感じ取った事をこう表現している。
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”主の大神(=大玄霊・大元霊)の心とは「至仁至愛」である”
そして、「この主の大神(大玄霊)の仁愛の心が、この世の生成の根源である」と説いているのです。
たぶん老子とは感じた呼吸、そこにみた天地の本質は似ているのかもしれませんが、解釈(そこに重ねた己の心)がまったく違うのです。
盛平の感受した天地の呼吸は「天地が造化生命体である」という事であり、その生命体の『仁愛の心』が生成の根源(根源力)であるということですよね。
老子は天地を「無名無心の造化機関」とし、盛平は天地・宇宙を「至仁至愛の造化生命体」と捉えていたのではないでしょうか。
私は古事記を読む限りでは「天地は造化機関(構造は数学的・幾何学的)であり、生命体(意志・意図を持つ)である」と思ております。
生命体であるからこそ、自己修正・自己管理能力と適応変化性と自己循環によるエネルギー創造性も備え「独立的」で完璧なのではないだろうか、と。
(つづく)