「立つ」ということの意味は私が思っていたよりも、
相当に深く力強いことのようです。
カタカムナやオアスペが示す、この世界の「カム(潜象)×アマ(現象)構造」。
すべては「相似象」なので、人の意識・精神・心の構造だけではなく、「肉体(身体)」にもカムの力を引き出す仕組みとその鍵が組み込まれているはず!
ということで、身体覚醒の鍵を探して「合気道の祖:植芝盛平氏」が説く 武産合気の世界を覗きこんでいる私です。
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では、前回からの続きへ。
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盛平氏曰く、
”国之常立神の働きを表すのは右足”
(右足が自転公転の大中心である)
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”常立神(国之常立神)はア声でもある”
どうやら「常立」とは「アマ界の造化の中心」であり、同時に「アマ界の造化のはじまり(兆し)」だといっているようです。
つーことは、別天の更に別界(根源界)に坐します「天之御中主のアマウツシ」ってことですよね。
その「天之御中主のウツシ」の力が「右足」に宿り、発揮される…というのか。
「右足」と共に重要なことは「常立」の如く「立つ」ということにあります。
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ここに「身体の使い方」の神髄があるようです。
「だた身を起こす」のではなく、「常立として我が身を立つ」のです。
何があっても、どんな力を受けても不動で立ち続ける「一本柱」となるのです。
盛平氏にとって「立つ」とはどういうことなのか、盛平氏の言葉に耳を傾けてみましょう。
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「私には何物もない。立てば相手は吸収されてしまうのです」
「私には何物もない」の意味わかりますか?
どうやら、『私には、(私も私以外も)何物も無い』ということらしいのです。
つまり「全一」の境地であり、自他の分離がない状態に「立てば至る」と!
”常立として立つ”
時点で変性意識状態にあり、我々が通常認識している「固く重く凝り固まった世界」から全く別の域(位置)から 「この世界を見ることができる」「この世界に在ることができる」のかもしれませんね。
私の解釈では「この世界(=私が在る世界)の中心に立つ」ということであり、同時に「この世界の主として立つ」ということじゃないか、と。
「私=この世界そのもの」の域なのかな。
「立つ」の反対の姿勢「寝る」から考え、そこにある「違い(溝)」から「立つ」ことの意味を考えてみたんです。
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そうすると「寝」状態では転がる程度しか身動きできませんが、「立つ」ことで、どの方向にも自主的・主体的に動いてゆけるという違いに気づいたんです。
そして「立つ」ことで、唯一自分の意志で往けない「天と地」が己の頭上と足下に現れ、それは同時に「自分自身が天地を繋ぐ・支える柱になった」ということでもあるのです。
”頭が天に向き、足が地をしっかりと踏みしめている状態”+己が常立として立っている時
ここに天之御中主の力を己の身に引きだす「はじまり」=第一の鍵がありそうです。
(つづく)