この父子神の因縁は、何を示しているのか?
【神生み篇】から⇒【火神を斬る篇】に入ってゆきます。
妻(母)を巡る父・息子の因縁…何となくオイディプス王の話しを思いだしてしまいますが、この二神の関係はそれとは違う「もっと別の何か重要なコト」の示しのように思えてきております。
では、解読の続きへ
イザナミの「神避り」により悲しみに暮れるイザナギの様子が描かれております。
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故、尓して 伊耶那岐命 詔りたまはく、
「愛しき我がなに妹の命を、子の一木に易へむと謂ふや」とのりたまふ。
御枕方へ匍匐ひ、御足方へ匍匐ひて哭きたまふ時に御涙に成れる神は、香山の畝尾の木本に坐す、名は泣沢女神。
(「古事記」より)
ここの場面はこれまで「淡々と」していた神の成し事の記録・物語から一気に様相が変わるので非常に強烈な印象を私は受けました。
特に父神イザナギ命が子神である火神カグツチのことを「子の一木」と表現したことにゾクッとしました(寒気が…)
読みと意訳をつけますので、イザナギ命の言葉をもう一度じっくり読んでみてください。
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「愛しき(うつくしき)我(あ)がなに妹(も)の命(みこと)を、子の一木(ひとつき)に易(か)へむと謂ふや」
「いとしい我が妻よ、おまえを子の一匹などと引き替えにできようか」
「愛しき(いとしき)」と書いて、「うつくしき」と読む処にも注目しておいてください、次回は「ここ」を読み解いてゆきますので~
父親が、妻が命と引き換えに産んだ「子」に対して、こんな思いを抱いているということを描いていいのか?しかも「神話」の中で描ききっていいのか?
そう、日本神話は「神の慈悲深い愛(=人類の救いの光)」というものを描いていないのです。
なんせ、イザナギは子・カグツチのことを「子の一木(子の一匹)」と表現している…凄く強烈な言葉ではないでしょうか。
私の考察では、イザナギはカグツチのことを「一柱の神」として認めていないんじゃないかと思われます。
故に「一木(ただの一本の木の過ぎない)」と表現したのではないでしょうか。
つまり、イザナギ神にとって「造化三神~別天神~神世七代」までの「先天神」と己ら夫婦神が生成した「後天神」では大きな違い・隔たりがあるってことじゃないでしょうか。
イザナギの「火神カグツチ」への態度と後にイザナギが生みだす三貴子・特に天照大御神への態度の差に注目して頂きたいと思います。
(つづく)