これは、とても重要な「真理」を示しているのではないだろうか。
古代の智を追って、古代日本の智に魅せられ、日本語のヒビキの神秘構造にふれ、今は「古事記」に込められた古代日本の真理にせまる智の解読作業に没頭中の私です。
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では、古事記の解読の続きへ
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さて、この「火の神」が負うことになった「母神殺し」と「父神に殺される」というとんでもない因縁は何を象徴・示しているのでしょうか?
ここで子神として生れ、母親を殺してしまい、父神に殺されるという「生と死」の目まぐるしい廻り…ただ、火神カグツチはイザナミと共に黄泉の国に行った(在る)わけではないようなので、もしかしたら「死」んではいなのかも?
私は古事記や日本神話が示す「この場面」を世界各地の神話に共通する「父と息子の因縁」のことかと長い間思っておいました。
でも、「何かおかしいぞ」という思いもあったんですよね。
私はこの場面の重要部分は、『”十拳の剱”で、火の神(ヒの神)の”頸(くび)”を斬る』だと気付いたのです。
ここでのポイントは、
- 伊耶那岐命は「十拳の剱」を使える
- 「十拳の剱」は伊耶那岐・伊耶那美の子神を斬る力を持っている
- 「十拳の剱」を以って、子神の「頸(くび)」を斬った
これらのことが「ある重要なこの世界の真理」を示しているんじゃないか、と。
何が示されているのか?
私が気づいたことをサクッと簡略的に示しますと
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この世界というのは「上なる界の力」を以って、「下なる界」を生み出すことも・斬る(分離・分裂・斬り別ける)こともできる、という真理が示された!んじゃないか、と。
んで(↑)上記太字の「この世界」というのは、神世七代より後の「後天界」であり、イザナギ・イザナミが天津神の命により天降りてやってきた「地上世界」のことになります。
神世七代までの「先天界」とイザナギ・イザナミが天降り地上造化をはじめた「後天界」の大きな違いが「この場面」で示されたのではなか、と私は気づいたのです。
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後天の御祖神であるイザナギ命が「十」の力を使うとなると…我々「人間」は後天何層目界に在るんですかね⁇
我々がいる世界が「後天第一界」だとしたら…逆に下に潜って「後天零界」に行けたら「先天零界」に出そうな気がしなくもない…(‘~‘)どうなんだろう。
(つづく)