正式な子として数に入れられていませんが、
最初のミトノマグハヒに依る二番目の子として考察していく~
古代日本の叡智に触れるためにも、日本語の神秘構造に触れ「本来の日本語」に目覚めるためにも「古事記の解読」は必要っぽい…と感じ、古事記を読み始めた私です、
「水蛭子」に続き 生まれたのが…
次に淡嶋を生みたまふ。是も子の例に入れず。
(「古事記」より)
日本語は音のヒビキが「主」なので、読みを確認。
”次に淡嶋(あはしま)を生みたまふ。是(これ)も子の例(かず)に入れず”
「是も子の例に入れず」という表現から、第一子「水蛭子」”も”子の例に入らないということが理解できます(;;)
「国生み」に於ける第二子の「淡嶋(あはしま)」こちらは「嶋(しま)」の体は成しているようで、「蛭状のマクミ(膜み)とカラミ(粘度性)の水エネルギーの塊り」である水蛭子とはだいぶ状態が違うようです。
では「淡」「あは」にはどんな意味があるのでしょうか?
そこから「淡嶋」がどんな様態で生まれてきた子なのかを読み解いていきます。
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何となく「淡嶋」がどんな島が見えてきましたよね。
更に「淡」の意が強調されたこちらの語から「淡」の本質を探ってみる。
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ここで、私に見えてきたのは 「マクミ・カラミ」で生命核となる「ナ~イカツミ」が無かった(完備されていなかった)第一子・水蛭子に対し、
第二子の「淡嶋」は生命核たる「ナ=意、意志・意図」が未完成・欠けた状態だった為に実体成すエネルギーがうまく凝集・凝固できなかった状態で生まれてきた嶋だったのではないかということ。
故に「嶋」の体を成して生まれてみたものの、それは陽炎とか蜃気楼のような嶋だったんじゃないか、と。
そこに島として在るのだが、淡く透けた状態の島で「潜象と現象の揺らぎ状」にあり、完全なる実体化・顕現化・物体化に至らなかったのではないか、と。
だから、淡嶋は我々の目には見えないし今も国土として認識されてはいませんが、実は日本のどこかに(中国・四国地方~瀬戸内の島々のあたり)今も潜象の島として「在る」んじゃないでしょうか。
水蛭子と淡嶋はこんな感じに私はイメージしております。
「男唱女和」の条理を守らず、過って「女唱男和」の形で美斗能麻具合を行ってしまったイザナギとイザナミの生んだ子らがこの状態ということは…
(つづく)