私は長年ずっと シュワちゃんは「アクション筋肉俳優」だと思い込んでいた。
この映画を観て、今までのシュワちゃん映画が走馬灯のように…
あっ、「シュワちゃんはSF名優だわ」と気が付いた。
彼が癖の強いSF作品の主人公として求められた理由もわかった。
- ◆映画バトルランナー~あらすじ
- ◆退廃した世界で唯一の娯楽は「金と暴力」になる
- ◆シュワちゃんは未来世界の主人公にピッタリ!
- ◆ファミコンのゲームみたいな番組映像
- ◆厳しい管理社会で「娯楽」は民衆を支配する道具となる
◆映画バトルランナー~あらすじ
世界経済が崩壊、食糧・資源も底を尽き…荒れる世界。
警察権力・政府によって厳しい規制が敷かれた管理社会になった世界で
民衆に与えられた唯一の娯楽が「テレビ」だった。
そんな中、人気を得ているテレビ番組が「ランニングマン」という
リアルバトルショー形式のバラエティ番組で
連日放送され過激なバトルと多額の賞金と人気司会者に人々は熱狂していた。
「ランニングマン」は実際の凶悪犯とそれを狩る正義の戦士のリアルバトル番組。
凶悪犯はランナーと呼ばれ、地下に広がるコースに放り出され
追ってくる正義の戦士「ハンター」たちから逃げきれれば
無罪放免となり多額の賞金を得ることができるが、ハンターに捕まれば、殺される。
この悪と正義の戦いに番組会場の観客も視聴者も夢中だった。
司会者に指名された会場の観客はハンターを指名でき、
そのハンターがランナーを狩ることができれば豪華なプレゼントがもらえるという
観客参加型のバラエティになっているのも人気の理由の1つ。
このゲームにランナーとして元警官のベン・リチャース(シュワちゃん)が参加させられることに。上の命令に逆らい自らの正義を通したことで無実の罪で凶悪犯にされたベンは強制労働所から脱獄に成功し「時の人」となっていたため、番組側が目を付けたのだ。
ゲームを進める中でベンはこのゲームの嘘とテレビのひどいでっち上げを知り
バトルの相手をこの番組の運営側へシフトし、巨悪に挑んでいく。
ベンの闘いっぷりを見ていくうちに観客・視聴者共に
ベンを応援する声が高まってきて…
※ここからネタバレ有の感想・考察となります
◆退廃した世界で唯一の娯楽は「金と暴力」になる
北野武監督が「どうして暴力を描くのか?」を問われた時
”もがき堕ちた人々に最後に残された娯楽・快楽が「暴力」だから”
みたいなことを語ってた記憶が…
北野武とこの映画の原作を書いたスティーブン・キングが見てた世界
感じていた社会の空気は酷似していたのだろうか?
建前は「凶悪犯を狩る正義の戦士たち」ですが
どう見てもランナーが不利な状態で行われるデスゲーム。
まさに「公開処刑」をショーにした感じ。
人が追い詰められ、殺されていく様を
観客も視聴者も楽しみ熱狂する姿の方が本当に恐かったっす。
金持ちも貧乏人もみんなからなぬ熱狂ぶりで
人間の本性って…って思わされます。
不思議なのは、この退廃した未来世界に「宗教」の存在を感じなかったことです。
ここにシュワちゃんがSFで求められる理由がある気がしたんですよね。
◆シュワちゃんは未来世界の主人公にピッタリ!
この2つの映画は荒廃した近未来の世界をかなり攻めた映像で見せてくれている。
その荒廃と歪んだ発展を続ける近未来社会にあって
シュワちゃんの謎のAI感が際立ち光ってくるのです!
正義や親しい人への情に厚い人柄を見せつつも
敵を攻撃~ころす時には不適に笑ったり、残忍だったり
非常にドライなのです。
「神を恐れる」という感覚をみじんも感じさせない、
それがシュワちゃんが演じる主人公たちなのです。
敵と味方への対応もまるで「AI判断」みたいな感じで
「0」か「1」なのです。
はじめてトータルリコール見た時は、
なんだこの大根演技…って思っちゃったんですが
今は「敢えてあのAIっぽさ」が求められたんだろうと理解。
近未来の荒廃、退廃した世界では「人間がAI化」するのかもしれない。
監督たちにはそう見えたのかも。
確かに、そんな予感するよね、だからこそジワジワと恐怖感じるわ。
◆ファミコンのゲームみたいな番組映像
とんでもないブラックバラエティ番組ですが
その映像はどこか「ファミコンのゲーム画面」みたいになんですよね。
ファミコンゲーム画面を超高解像度にした感じ、といえばいいのかな。
キャラやバトルフィールドが作り込まれているので
リアルショーでありながら、どこかバーチャルなんですよ。
だから「殺人ゲームショー」を視聴者も楽しめていたのでしょう。
ファミコンゲームでさ、例えばマリオが敵に接触して「1死」しても
悲惨さがないでしょ、あの感じっす。
◆厳しい管理社会で「娯楽」は民衆を支配する道具となる
「テレビ」の影響力や「娯楽」のもつ依存性と洗脳性を描いた映画だった。
社会から豊かさが消えていくほど「自分より弱いモノの悲惨な姿」が娯楽となり
求められることに恐怖を感じたけど、今の世の中みるとフィクションではないのかも。
人々の不満や欲求などを支配層や政府に向けさせないために
「娯楽」に意識を向けさせるって作戦は
300年前から実際に行なわれているものね。
300年前から行なっている人たち、の前の時代にもあったことだしね。
奴隷を戦わたりとかね。
私の好きな「酒」もその作戦の一部に使われているのかぁ。
酒にのまれないように酒とつき合っていこうと思う私です。