「自分」という漢字がどんな意図をもって造られたのか?
「自」だけではなく「分」がつく意味は如何に⁇
私が尊敬する賢人・哲人「安岡正篤」氏ってこんな人
↓
「自分」という言葉・文字表現に込められた意図を安岡先生なりの解釈で語ってくれております。
↓
日本人は己のことを”自分”という。われわれは自己として存在すると同時に他己がある。この自他が相まって全体を構成する。自己はこの全体における分の存在であるが故に、分際であり、これを結んで「自分」という。何気なく日常に使う一人称だが、哲学的に深い言葉である。
(『照心語録』)
全体の中の「分の存在」であるから「自分」というのかぁ。
自分と己を示す時、同時にそこには他の存在も示されているとくことかぁ。
「自分」と表現する時、自覚する時、全からの分離が起きているわけか…なるほど。
安岡先生が示す意味もあると思うが、私なりに「自分」という言葉に向き合い
そこに込められた意味を考えてみた。
↓
「自」=私という時に指差す己の「鼻」からの象形文字だそうだ。
わたしが認識する「私(存在)」ってことだろう。
これは「在る(形・顕現)」を指しているわけですな。
それに対し「自分の分」が示すのは「本分」なんだそうです。
【本分とは】
- 人が本来尽くすべきつとめ
- その人にとっての本来的な義務
- そのものに本来備わっている性質
どうでしょう、どことなく「命(めい)」に近いものを感じませんか?
つまり、「自分」を自覚する時、人は己のことを「私は本分(命)に生きる存在だ」と自分に宣言しているようなものなのです。
天に対し大義を誓った存在(生命)=それが自分です、と自己に語りかけている。
同時に自分という時に「他己」の存在も認識するわけだから、
自分以外の他者もまた「それぞれに本分に生きている」と分かっているわけかぁ。
そうなると自分のことを「天命に生きる全体の中の個(分)の存在だ」と認識できるということなんだろう。
日本語とは深く覗くほどに、そこに込められた深い思い(意図)が見えてくるものですね。当たり前に使っている言葉から深掘りしてみると面白いかも。
(つづく)