この言葉の真意わかりますか?
私が尊敬する安岡正篤氏ってこんな人
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本日は『論語の活学』に於いて、安岡先生が触れた孔子の「倦むことなかれ」という言葉について読み解いていきたい。
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孔子は言う。→「先頭に立って骨を折ること。ねぎらうこと」だと。
それを受けて子路は言う。→「もっとありませんか」と。
熱心に教えを乞う子路(弟子)に対して、どんな意図(真意)で孔子は「倦むことなかれ」といたのでしょうか?
安岡先生の訳(?)によると、「倦むことなかれ」とは『途中で嫌になってはいかんぞ』との意・教えだという。
「倦む」とは、”飽きる・嫌になる”という意味だそうですが、
その「嫌になる」の背景にあるのは『その事をし続けてもよい結果が出ないので、ほとほと困り飽き嫌になる』ということなのです。
熱心に師に学ぶ子路ですが、
孔子から一つの教えを与えられてもすぐに「もっと、もっと他にありませんか」という姿勢には危険が潜んでいるのではないでしょうか?
孔子(師)が弟子に与える教えというのは「種」なのに、子路(弟子)は師に「果実」を求めているのです。「果実」与えられ、我がものとすることは「学ぶ」や「道」から大きく外れてしまうという危機感を孔子は感じて子路を諭したのではないでしょうか?
師が与えてくれた一つの教え、それは短い言葉故に、その真意を弟子が見つけてゆかねばならない。そこに「師から与えられた種を育て、実りある大樹」にするという学びの正道があるのではないでしょうか?
師の動きをまねるだけでは、まったく意味がないのです。
尊敬する・偉大な師の言葉を聞き、わかったつもりになっても意味は無いのです。
その言葉に自らが積極的に向き合い、自分の中に知識を超えて感覚にまで落とし込めたときに「種」は発芽し、それにより意識・行動に変化が起きることで人生に「実り」をもたらすことで学びは実を結ぶのではないでしょうか。
私も、カタカムナの解読で日本語の一音一音の示しから向き合い「何が示されているか」を考えた経験でやっと「知る」という真意がわかった気がしております。
人生の糧となる実りを得るためには、「そのことをし続けてもなかなか良い結果・思う結果が出ない為、嫌になり諦めそうになる」が、それが正しい道であることが多い、故に『倦むこと勿れ』と孔子は教えてくれているのだ。
弟子思いのいい師やな。
結果を急ぎ、近道ばかりするようでは道に迷い続けるばかりで、
いつまでも真理や天道に入れないのかもしれません。
「継続は力なり」とは「継続」することによって、身心(肉体と意識)の深いところにその「智の実」を得る(融合させる)ことなのかもしれません。
(つづく)