エベレットの「パラレルワールド論」をまた「スッキリ」理解できておりませんので、更に詳しく見てゆきます。
無知な私に「量子論の世界」を優しく案内してくれる1冊
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エベレットが「量子論が自然界の基本原理であるならば、ミクロ界のみならずマクロ界全体つまり宇宙全体にも適用されているはずだ」と考えたところは、私も同じ考え何で理解はできます。
それ故にエベレットが「宇宙のはじまり(ビッグバン)」から量子論的に再考してみようとしたことも理解できる。
んで、エベレットはこういう考えに辿り着いた
極微の一点(特異点)=時間も空間も何も無い状態から 、ビッグバンにより微粒子(素粒子)が生まれるのだろうか?
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この問題は量子論的には「確率的な問題」となるので、「a:微粒子が生まれた宇宙」と「b:微粒子が生まれなかった宇宙」に枝分かれした、とエベレットは考えたのです。
んで、たぶんこういうこと。
→「我々はa宇宙にいる」というのだ!そして我々の観測では「a宇宙」しか見えない
私としては、だとしたらビッグバンも誰かの観測か意図がないと発生しないんじゃないか??というモヤモヤが残るので、更に「パラレルワールド(並行宇宙)論」を掘り下げていこうと思います。
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「パラレルワールド論」によると、
この世界(宇宙)は最初の極微の一点のはじまりから 可能性の数だけ次々と枝分かれ(分岐)を繰り返しており、その枝かわれした宇宙のうちの1つが「私たちのいる現在の宇宙」であり、「同時に分かれてできた別の可能性の宇宙も存在している」というのだ。
つまり、ザックリいうと「我々のいる宇宙は 始まりの根・茎から枝かわれした一株のコキアの”一枚の葉”のようなもの(状態にある)」ってことかと。
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私が古代文明やエメラルド板やカタカムナ解読を進めながら、イメージしていた「この世界(我々のいる宇宙)」は「1本のブドウの木が枝を広げ、その枝に実った一房のブドウ、そのブドウの1粒の実だ」というものだったので、ここでなんか量子論が示すこの世界像と一致した感じがあります。(私の勝手な解釈・感じ)
ただ「(日本の)ブドウ園の葡萄」なんですよね。
1本の葡萄の木を農園の人の手がはいることで、棚を吊り枝を広く張り巡らせ、たくさんの葡萄の実が生るように創られた、そこで実った葡萄の1粒なんです。
イメージ的には、手入れされた「藤の花」の名所で見られる、1本の木から枝が広がりたくさんの藤の花が枝から下がっている姿も同じように「全宇宙・総宇宙像」と似ています。
葡萄にしても藤の花にしても「人の手が入っている」ことが重要で、この宇宙もそういう風に意図をもって育てられている気がしてならないのです。
でも、宇宙が時間と共に「拡大している」ってイメージも葡萄や藤のイメージと合わせるとピッタリ合うでしょ~全体宇宙の相似として個々宇宙があるので、我々のいる宇宙も拡大・膨張し続けているのも納得できるでしょ~
パラレルワールド論がいう「可能性の数だけ」ってのは、コペンハーゲン解釈でいうところの「重ね合わせになっている状態」の数だけ、ってことだそうです(‘~‘)
私の認識では「重ね合わせの状態」ってのは、もっと未確定というか「可能性をひめた波が漂ってる」感じだったのですが、「(可能性が示す)色々な状態が重なり同時に存在する」って方向にいくのは何かちょっと不思議な感じはあるんですけどね。
(自分でも何言ってるかよくわかなん、けど)