「神はサイコロを振らない」のか、それとも「ここは神のゲーム盤の上」なのか?
「確率(解釈)」という原理を物理学の中に持ち込むことに
強く異議を唱えたのが アインシュタインやド・ブロイ、シュレーディンガーというそうそうたる物理学者たちだったわけですが、その主張をあなたはどう感じましたか?
↓
”確率(確率解釈)などという原理を物理学の世界に持ち込むと、物理学はもはや「決定論」ではなくなってしまう”
という反対理由…「決定論」だったの!?と驚く私。
無知な私に「量子論」の世界を優しく案内してくれるこちらの1冊
こちらの著者:佐藤先生の解説によると
『物理学を決定論で考える』というのは、どういうことかというと
例えば、私が手にもった野球ボールを投げるとする
その時「私の手を離れたボールがどんな運動をするのか」は
- ボールと地面の距離
- ボールの速度
- 地球の重力の影響
などを知ることで正確に予測できる、というわけです。
この時点では「ほぼ正確に予測できる」でしょうけど…
他にもボールの運動に影響を及ぼす「風」とか、あらゆる要因・条件を”すべて知る”ことができたならば「ボールがどんな運動をするか」という未来をただ1つに決められる、というのが「決定論的考え」だそうです。
過去の時点で結果(未来)は決まっている、と考えるわけですな。
なんか、因果の法則みたいだから、そんな気もする。
ニュートン以来の物理学の大前提が
”自然現象を表す物理学は決定論でなければならない”
というものだったそうです(マジかよ!)
その割には「?」ボックスをたくさん放置されてません⁇
でも、まーアインシュタインさんは、その「?ボックス」の存在に対して
「まだ我々が掴めていない未知の変数が存在している」って言ってるから
そこも含めてなら、私も「世界は法則に従い動いている」は賛成や~
んでアインシュタインさんが問題視しているのは
「確率論」が示すのは「未来は確率的にしか決まらない」ということであり、
「絶対性」「1つの決まった未来」は存在しなくなってしまうということ。
故にアインシュタインは「神はサイコロを振らない」という有名な言葉で
コペンハーゲン解釈を批判したのです。
私は「神の振るサイコロ」が未来(結果)を決めるというよりは
科学が要因として見ていない「意志(意識⇒意志決定)」の作用が大きいからではないかと思うんですよね。
だから、過去と未来の繋がりってこんな感じじゃないかと
↓
実は「カムナ(カム意)」と「それぞれのアマナ(アマ意)」の影響を受けまくって、めっちゃ揺れた動きをしており
あらゆる別時空間軸(可能性・結果)に乗ることも可能つーか
ぶっちゃけどこの「マ・間」で止まるかは過去のある時点で決まるわけない、といったほうが正しいかも。
神がサイコロ遊びをしているか、どうかでいえば
私は「神は場を用意し、そこに生命・現象を起こす設定(構造)は創造したが、最初の動きはだすきっかけの一突き(神の息吹)以外は、自分が仕込んだシステムと発生するアマとの関わり任せにして観察してる」んじゃないかなぁと思うております。
だから、場としては緻密に計算・設計されてるんだけど
アマナ(アマの意)が起こす「バグ」は、神の観察の楽しみでもあるが
行き過ぎた計画外にはカム(神)の鉄槌・調整が入ってるんじゃなかろうか。
私も神はサイコロを振っていないと思うよ~
(つづく)