其の正体…であり、そのジレンマの根源といか…
機能の「BBA徒然つぶやき」の続き
シュタイナーにより判明した、
私が「哲学」に感じるジレンマが何故湧き上がってくるのかの答えっす。
- 「哲学」が慶徳の学びの中心にある芯柱であると思っている(人類の智の探求の根源にして真理に通じる学びの道だと)。
- だが、どうも「哲学」に実態の無さ(核たる実体が見えない)というか ゆらぎというか 思考の幻想的なものも感じてり現代では あまり人々から重要視されなくなっているのも感じている。
(↑)これが私の「哲学」に感じるジレンマです。
でも、まーそれも「智の探求・真理の追究」に於いて 学びの道が科学や数学などそれぞれの分野に細分化されたせいかな…となんとなく納得はしいておりました。
ところが、今 読んでいる+読みこんでいるシュタイナーのこちらの本の初めの方にある「哲学とは何か」について書かれた箇所を読んで、衝撃に貫かれたのです。
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そもそも哲学とは何であるか を理解できるのは…
哲学とは何でしょうか。
という問いかけからはじまり、古代からの哲学の歩みが解かれ
”そもそもは儀式により高次の秘密を得て、公開できるものは世間の人達にも伝えられていた”
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ところが時代が進み、だんだんとその伝授された高次の智が 「(修行者たちが儀式によって得た)高次の世界の直接体験由来に由来している」ということが忘れられ
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ひたすら人間の知性、自分たちの知性に信頼をおき、
単なる哲学的な知性による考察・更新の場となってしまった。
というような「哲学」の変遷が語られた後に、この一文(一節)があったのです。
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このようにして、概念による思索が、世代から世代へと引き継がれていきました。こんにちの哲学は、古代の教えの遺産に他ならないのですが、ただそこから生命が抜き取られて、死んだ概念の骨格だけがあとに残されているのです。
こんにちの哲学者たちは、自分たちの概念の由来を意識していません。
こんにちの哲学は搾り取られた概念になり果てた古代叡智の遺産であり、抽象化なのです。
確かに、今日の哲学に感じる「モヤッと感」や色々にぶれてクリアに見えない実体感ってのは「生命を抜き取られ、抽象化された残骸」だったからだ!
と妙に納得できたのです。
真理に通じる生命核のような部分が ガッツリ消え堕ち
思想の掲示板みたいになっているような感じがしてたからや!
だから「現代・今日の人々からは目を向けられなくなった」わけや~
現在の学問としての「哲学」という広く大きなイメージで考えると こういうイメージですが…学びを深めた結果、「真理に通じる道」に入り 高次の智の迫っている方々は少数でしょうが「いる」とも思っております。
「盡心」⇒「知天」は本当だと思う。
んで、この本を読んで更に驚いたことに
シュタイナーは人間の生成設計図的に「脳から目が生える仕組み」ということを1920年代に説いているのです。
私は最近のニュースで「培養した脳から目が生えた」って聞いてびっくりしたばかりなのに…
(いつかこの話も詳しく触れたいね)