「無所得」とするか「無・所得」とするか?
これが難しいんですけど、BBAは決めかねるので
今回は双方から意味を読み解いていこうと思います。
般若心経がたった262字でできてると知り
軽い気持ちで「何が書かれているか?」知ろうとしたら
とんでもない沼にはまってしまった感じのBBA私です。
言葉が持つパワー
字が持つ意味の凝縮&暗号パワー
圧倒されております(^^;)
以・無・所得・故として解読
「以て、所得は無し、故に」
ここで抑えておくべきは「所得」の意味ですよね。
私たちが今使っている「所得」という意味ではなく
仏語の「所得」が何をさしているのか?
どうやら「有・所得」という言葉があって
意味は『理解すること、知覚すること』だといいます。
有・所得の逆が「無・所得」
⇒つまり、「理解も知覚もない状態」ですよね。
ということは
「以無所得故」とは
以上のことを以て、
理解も知覚も無いと云える、
故に
ってことになりますよね。
今までの前部分全体をさしていると思いますが
わかりやすく直前にしぼると
”無智・亦・無得を以て無・所得 それ故に”
⇒智慧ではない知識では真相を得られない
よって理解も知覚も無い、それ故に
こうなる。これが私の解読の半分で
もう半分はまた違った分解で解読します。
以・無所得・故で解読
「以て、無所得、故に」
無所得で一語とみなして解読していきます。
「無・所得」で「所得」に主な意味を持たせるのではなく
「無所得」で1つの意味をさしていると考えます。
仏語で「無所得」の意味は
⇒こだわりのない心を持つこと、その境地
今までの教えを以て
何物にも囚われない心を持つ、
それができたなら
こんな意味になりますよね。
これが解読のもう半分。
◆「無所得=こだわりのない心をもつ」とは
更に「無所得」の境地を詳しく見ていくと
”自己保存の欲望を無くす”とあります。
これはどうやら
「生きたい、守りたい、発展したい」
という本能のからくる欲望らしい。
自然と湧きあがってくる本能的欲望を無くせるのか?
謎ですが
どうやら仏語が指すのは「自我に対しての執着」らしいです。
自己保存の欲求に支配されたままでは
変化する無常・無我の世界の真相を
「ありのまま」に見ることができないってことですよね。
以無所得故まとめ
涅槃に至る智慧を得て
真相を見るためには
「無所得=自我に対しての執着を離れた無我」の境地に
有らねばならないと云っているようです。
空と無を理解し、感じなければその境地にいけない…
BBAの修行の道は続く