植芝盛平氏が説く「合気道」は「天の浮橋に立つ」ことからはじまる。
この合気道において「天の浮橋に立つ」とはどういう意味があるのだろうか?
身体のカムアマ構造とカム覚醒スイッチを探して「合気道の祖:植芝盛平」氏が説く世界を覗きこんでいる私です。
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ヨーガという言葉の元々の意味が「馬と馬車をつなぐ」であり、そこから「馬に乗って旅する」⇒「天馬の馬車に乗って天上界に神々を迎えに行く」というイメージをもって天上界と繋がる(むすび)ことに通じるようになった、という。
リグ・ヴェーダの祭司詩人は「讃歌」をこの天馬に見立てイメージするそうだよ。
このように「讃歌」や「天馬のイメージ」というような「むすび」の物実が合気道にも存在する。存在するというか、そこが「合気のはじまり」なんだそうだ。
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盛平氏は、合気道の動きを神楽舞で弟子たちに見せていたようですが、この時
『神楽舞の始めは、「天の浮橋に立たして」であり…』と語り説いている。
古事記でイザナギ・イザナミが天の浮橋に立った場面を指していると思われる。
別天神たちから「地上界の造化の完成」を託されたイザナギ・イザナミが下界を見下ろす為にたったあの「天の浮橋」っす。
”天と地の間に浮かぶ橋”
天と地の間…「空」の領域っぽいっすよね。
ここに立つことの重要性を植芝盛平氏はこう表現しております。
「合気道は、どうしても『天の浮橋に立たして』の天の浮橋に立たねばなりません。これは一番のもとの親様、大元霊、大神に帰一するために必要なのであります」
一番のもとの親神が「御祖神=いざなぎ命・いざなみ命」ではなく、そのもっと奥の大元におられる「大元霊(大源霊・大玄霊)」でることに注目です。
つまり天之御中主神さまが生まれた、その胎(原)たる「エネルギーの海=大元霊」へと帰一することが合気道では必須なのです。そこを為さずして、盛平氏が説く合気道に非ずということですよね。
合気道や神楽舞が「一体なんたるか」というと、
「私」⇒「御祖神」⇒「天之御中主神」⇒「主の大神(大元霊)」へと帰一(むすび)成す『物実』として存在している、のだそうです。
この時「自分を無にして⇒天之御中主神なる⇒大元霊へ」という流れが起きる。
自我を消すことで、まず「空」の領域に立てるってことでしょうね。
この時、私が立っている空の領域が 先天と後天を「むすぶ」⇒天の浮橋に成っているのだそうです。
自分を変容させて、自分がいる空間場を変えてくってことのようにも見えますな。
(つづく)