ぶれない・折れない・柔軟な心を得るため
武士道と禅の精神修行に励むBBA私です。
今回は「はっ」とすることを学んだのでここに書いておこうと思います。
【イライラ社会を生き抜く】ためにBBAが参考にしている本がこちら
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武士道で心に仁義の核を装備し
禅の世界を西洋思想側から覗いて「理屈」っぽく理解したら
自分の外側、他人、目の前の世界をみる目が変わってきました。
- おさらい①誰もが生まれた時は純粋でまっ白だった
- おさらい②感情を抑圧したり、逃げてはいけない
- 誰かを傷つけたり、憎んだり、自ら病になる人の背景
- 彼らもまた犠牲者なのである
- 今もみんな心の奥に「まっ白な空間」を持っている
おさらい①誰もが生まれた時は純粋でまっ白だった
生まれたての時は何の観念も信念も思想も無いので
その意味で「まっ白」ですよね。
真っ白で生まれたけど
生きていく中でどんどん自分の観念や信念や思想を積み上げ
他者との境界線である自我・エゴを築いていく
そしてどんどん「まっ白だったこと」を忘れちゃう。
自我・エゴは自分の一部であり、「私そのもの」になってしまうので。
おさらい②感情を抑圧したり、逃げてはいけない
前回、自分の感情を怖がって逃げると
逃げれば逃げるほど感情は必ず追ってきて巨大化する
という部分に触れました。
自分の感情から逃げたり、気が付かないふりしてごまかしたり
心の中に抑圧してためこんでいるとどうなるのか?
ここを考えると、他人をみる目が変わってくるんです。
誰かを傷つけたり、憎んだり、自ら病になる人の背景
先ほどの自分の感情から逃げてはいけないという話の後に
仙人(本:「それは在る」の中の悟り人)がこう言ってたんです。
誰かを傷つけたり、憎んだりする者
また自ら病になる者
彼、彼女らがどれだけ自分の感情を
抑圧してきたか、わかるかね?
“それ”は在るより
はっ!としました…
漠然と大事なことが見え始めた私に仙人は
こうズバッと教えてくれた。
彼らもまた犠牲者なのである
昔から罪を犯したり、悪とされる人に対して
耳にしてきたこの言葉
「彼らもまた犠牲者なのである」
今回、仙人のおかげで
この言葉の意味をちゃんと理解できた気がします。
仙人曰く
彼らは何も罪ある者ではない
むしろ、まったく純粋無垢であるが故に
社会の観念の犠牲となってしまった者たち
なのである
“それ”は在るより
この世の中に何かを信じ、期待し、裏切られた結果
抑圧した感情に突き動かされている人たちなのかもしれない…
純粋無垢であるが故にってのが
すごく納得できたんですよね…
世の中、ずる賢く臨機応変に世渡りする人のが
心がなんだかんだ自由なのかも
今もみんな心の奥に「まっ白な空間」を持っている
エゴを積み上げ
過去と未来に意識を引っ張られ忙しい私たちですが
誰もが生まれた時の「無垢」だた心を今も持ってるんですよ!
ただ自分では相当意識しないとたどり着けないくらい心の奥にある。
自分を観察する私を持ち
じっくり観察すると「まっ白な無空間」が見えてきて
それが見えると
他のどんな人にも
同じ「まっ白な無空間」があるとわかってくる。
誰かを傷つけたり、憎んだり、
自ら病になってしまった人も
実は心の奥に生まれたての時と変わらない
「まっ白で無垢な自分」を持っているんですって。
仙人が言うには
このまっ白で無な空間を持って
私と他を分ける境界線が無くなっていくそうです。
この先の話はまた今度。
いい人、悪い人、変な人、そう自分で認識してきた人達が
みんな同じってわかれば今日の所はOK!
何となくでも
他人の見方や、見え方や認識が
かわってきたでしょ?
BBAはだいぶ変わったんですよね。
では、また~☆
修業は続く