武士道で私の中の「日本の精神」を奮起し中
俗世間を愛し、俗世間を酒を友に生きる「毎日が修行」の半出家BBA・私です。
どうやら「心が腐らぬ為には礎石として義を持つこと」が重要らしい。
「義」とは何ぞや?
「義」とは何ぞや?自分の頭で考え瞑想する
あまり意識してこなかたので
改めて「義」という言葉の意味を考えてみる。
この「義」という一文字に込められている内容がとんでもなくでっかい!
漢字というのは本当に優れた文字文化だと思う。
1字に詰め込まれた情報量が巨大。
義理とか義務とか2文字以上の「単語」となって
触れる機会が多いために「義」そのものが持つ
深い意味を考えずに来てしまった自分に気が付く(--;)
ちなみに私の「武士道」修行の教科書(?)はこちらです。
⇓
新渡戸稲造氏が外国の方々に日本の精神を伝えるべく
「武士道」を英語で書かれたものを日本語に翻訳している
というややこしい話ですが、
今も読まれている名著です。
この「義とはなんぞや?」をまずは自分の頭で考えてみることが大事
私の場合はこの作業を「瞑想」と合体させて修行に活かしている。
あなたにとって「義」は何を意味しますか?
孟子曰く「義は人の道なり」
「仁は人の良心なり、義は人の道なり」
とかの有名な孟子がおっしゃっているので
どうやら「義」とは
「人が進むべき道=生きる姿勢」のようだ。
人が失われた楽園を取り戻すために
通らねばならない真っ直ぐな狭い道
これが四諦八正道のいう
「涅槃に至る正道」か!?
つまり「正義」とは「正しき人の道」
私は「義」というものを勘違いしていた。
義こそ四苦八苦の人生を涅槃に向かって歩むための道しるべだったのか。
どれだけ義が大切なものか、わかってきた。
私が勘違いしていた義理・義務・大義からの「義」
私が「人の道」という理解に至る前まで
私にとっての「義」とは
- 正義
- 義理
- 義務
- 大義
などの言葉からのイメージで
「社会的建前上の人が守るべきルール」
というような倫理・道徳的な心得かと思っていました。
「義」とは何ぞや?
と、まじまじと考えたことは1度もないけど
大まかにこんな認識でした。
義は「社会からの圧力」的なイメージもあったのですが
武士道を読んで「義とは自分の良心や求める正道」の様です。
義と本心が分離している私の認識は間違いで
本来の「義」は自分の良心が求める正道なので
「義」に従うことは自分の良心に従うことであり
外からの押し付けではないのです。
外圧も心のストレスも本来は無いはずだったのかぁ。
時を経る中で堕落した「義理」の本来の意味
あなたは「義理」ってどんな意味だと思っていますか?
私にとっては上で述べたように
「社会的な巨大な建前看板に書かれたルール」に
本音では嫌々でも従う時のことを
「義理」とイメージしていました。
書籍「武士道」によれば
⇓
「義理=正義の道理」
人が正しき道を進むための道筋
人が正しき道を進むために行なうべきこと
「道理」という言葉にはどうやら「行い」が含まれているようです。
今ではどこか「義務的に従わねばならない・・・」ような意味で
使われるようになった気のする「義理」という言葉ですが
本来の意味はまったく違うんですね。
しかし、義理は時を経るうちに曖昧となり堕落した。
今では、しばしば詭弁のために用いられ、
非難される臆病にまで堕ちてしまったのだ。
正義の正道から遠く離れてしまった義理は
その翼の下にあらゆる偽善を隠し持っている。
この部分に非常に重要なことが書かれている。
φ(..)メモメモ
義理チョコという言葉も
本当は「正しき道を行くための行ない」として
相手にチョコを贈る行為なのかぁ。
こいうして「義理」という言葉のもつ本来の意味を知ると
「義理と人情」を大事にしてきた日本の精神ってすごい!と勝手に感動。
人生で一番大事なもの、自分にとって一番大事なのもがココにあったかも。
「義」の礎石を持つことで
どんな状況でも倒れない心の構築ができるのですな。
知る前より
ちょっと心が軽く、明るい光が注いできた気がする私です。
では、また次の修行日記でお会いしましょう。