「女=をみな」と読んでいるということは…
古代日本の叡智に触れる為に、いろいろ奔走中の私です。
今やっと「古事記」に向かい始めたぜ~
実にオモシロい、ので「有意義な時間の過ごし方」として古事記の解読をオススメします。
では、天つ神の御所に参上し ふとまに卜相ひて頂いた結果に耳を傾けてみましょう~
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共に参上り、天つ神の命を請ひたまふ。
尓して天つ神命以ち、布斗麻迩に卜相ひて詔りたまはく、
「女のまず言へるに因りて不良し、また還り降り改め言へ」とのりたまふ。
(「古事記」より)
卜相ひ(うらない)の結果、天つ神がいわれた言葉を声に出して読んでみましょう。
「女(をみな)のまず言へるに因りて不良し(さがなし)、また還り(かえり)降り(くだり)改め言へ」
”イザナミ命から先に誘った(声をかけた)のが善くなかった”と云われております。
「男唱女和」の条理(常理)に反したということでしょう。
では、何故 女(をみな)が男(をとこ)よりも先に誘いの言葉(讃美の言葉)を言ってはならないのでしょうか?
「男唱女和」の条理(常理)については、我々が日常目にする男女問題とか男性vs女性という浅く狭い視野でみてはいけないところだというのは何となくわかりますよね。
そもそも「男神」と「女神」の話しですから。
なんとなく「人間の男女の姿に近いイメージ」でこの二柱の神を想い描いている方も多いかと思いますが、その本質は「生成の波動=力渦」ではないかと私は思うております。
美斗能麻具波比による「天之御柱」を廻り合うことで二柱の神は「力渦」を発生している。というか生成の祖神としての「生成力」をここで対なる力渦に変換したのかも。
んで、この時に外向き・内向き×左旋回・右旋回と4つの渦が生じたわけです。
その4つの力渦のカカワリ合いで「生成=造化・創造」が成されるってことだろう。
その生成に於いて「女(をみな)」が先んじては理に反すというのはどういうことなのでしょうか?
私はこの時に生れる4つの力渦とイザナギ・イザナミの関係をこう考察しました。
んで、今回の天津神の御言葉を聴いて「イザナミ命」の持つ渦波の「<」部分が逆なんじゃないか?と思いはじめたのです。
正しくはこっち
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こう見ると、内向き右旋回の力が先んじて「生成を誘導」することによって…どうしても内向きの力が強くなり「現象に出現する力=外向きの力」つまりは「顕現化の力」が弱くなってしまい「形」が完成しないままの状態の生成になってしまう、という考えが浮かんできたのです。
先に言葉(御言)を唱えるということが「生命の核となり生成を誘導すること」を示しているのではないでしょうか。
ここで「女」を「をみな」と読むことの意味が見えてくる気がしたのです。
「ヲ=潜象から現象への起こり~”オ(於=環境・場)”に行く前の状態」の「みな」が「女」なのです。この「みな」は「御胞衣」を示しているのではないでしょうか。
女(をみな)というのは「御胞衣」としての重要な役割(命・みこと)を有しているということが語られている場面なのではないかと思うのです。
それは「男」の命に劣るものではなく、同等に尊く重要な働きなのです。
胞衣は生命のはじまりを受け入れ包み込む存在なのです。
なんだかんだで「男・をとこ」と「女・をみな」も根源原始の海(ヌン)とそこに出現した造化の意図(生命の火花)⇒天之御中主神(天之水の主+中心点)のウツシなのでしょう。
(つづく)